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上書き (2009年08月15日)
その昔に有効であった(あるいは完全に反証されていたわけではなかった)科学的認識は、その後の研究プロセスで無効性が確証されると、以後は「間違った認識」という扱いになる。カール・セーガンが「科学のエラー修正機能」と読んでいたものが働いているわけだ。
現在の私たちがこれを評価する時には、「当時は有効であった科学的認識」を「現在では無効な科学的認識」として取り扱うことになるだろう。つまり、現在の判断基準によって過去の判断を“上書き”し、覆すことになる。これもそれ自体としては別に問題ではない。
だが、現在では無効となっていることをもって、「科学は本来的には昔あったような事態を起こし得ないものであり、従って当時の認識は当時としても科学ではなかった。当時の人々が十分に“科学的”であったならあのようなことは起こり得なかった」と言うことは出来ない。科学とはエラーも含めての認識プロセスの積み重ねなのだから、過去の“真正科学”がその時点においてはまさしく正当な(しかし現在では無効とされている)判断を、他ならぬ正当な科学の資格において行っていても不思議ではない。
でも、科学は修正された認識を“上書き保存”するので、現在において有効な認識にもっぱら定位して「当時の認識は科学的であったか否か」と考えると、正当な科学の名の下に提唱される主張の客観的・普遍的な正当性もまた折々の時代や環境の制約を受けがちになるという点が、案外と見過ごされがちになるのではないかという気がしている。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20962184.html】
現在の私たちがこれを評価する時には、「当時は有効であった科学的認識」を「現在では無効な科学的認識」として取り扱うことになるだろう。つまり、現在の判断基準によって過去の判断を“上書き”し、覆すことになる。これもそれ自体としては別に問題ではない。
だが、現在では無効となっていることをもって、「科学は本来的には昔あったような事態を起こし得ないものであり、従って当時の認識は当時としても科学ではなかった。当時の人々が十分に“科学的”であったならあのようなことは起こり得なかった」と言うことは出来ない。科学とはエラーも含めての認識プロセスの積み重ねなのだから、過去の“真正科学”がその時点においてはまさしく正当な(しかし現在では無効とされている)判断を、他ならぬ正当な科学の資格において行っていても不思議ではない。
でも、科学は修正された認識を“上書き保存”するので、現在において有効な認識にもっぱら定位して「当時の認識は科学的であったか否か」と考えると、正当な科学の名の下に提唱される主張の客観的・普遍的な正当性もまた折々の時代や環境の制約を受けがちになるという点が、案外と見過ごされがちになるのではないかという気がしている。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20962184.html】
私に見える世界、あなたに見える世界 (2009年08月13日)
とある場所で猛烈にカチーンとくる表現に出くわしたので(あえて引用や参照リンクはしない)、ちょっと書いておきたくなった。だいぶ遠回しな書き方にはなっているけれど。
カントは『純粋理性批判』の中で“宇宙人”の存在に言及している……というのは、まったくの嘘ではない。
表現はややこしいが、平たく言えばこういうことだ。
人間の五感に感じられるこの世界の様子は、世界そのものの実相をありのままに映し出した真実の姿などではなく、あくまでも人間の感覚器官を通して感じられる限りでの世界の姿であるに過ぎない。「我々とは別の思惟的存在者」(宇宙人?)については、「我々の直観を制限している条件や、また我々に普遍的に妥当する条件と同じ条件によって制限されているかどうかを判断することはまったく不可能」であるため、宇宙人の目から見て「外的に現れる限りの一切のもの」が、人間の目から見て「外的に現れる限りの一切のもの」と比べてどのように違うのかは、人間には全く知る術もない。
例えば、人間の視覚はこの世界を「総天然色」で見ることができると信じられているが、実際には人間の目では知覚できない色彩というものがいくらでも存在する。
こうした生物にとっての「総天然色」は、人間にとっての「総天然色」とはおよそ異なったものとなっているだろう。
異なった生物同士の間だけではない。同じ人間同士でも感覚の微妙な個体差はやはり存在する。先天的な要因(あるいは後天的だが器質的な要因)による場合もあれば、後天的な経験の差異に由来することもあるが、いずれにせよ世界の現れ方は人によって少しずつ異なっている。端的な例としては色覚異常が挙げられるが、他にも視力2.0の人と視力0.1の人の世界は同じではありえないし、音感の違いや味覚の違い、痛みに対する感じ方の違いなどといったものがいくらでもある。
そして、私たちが他人の感覚する世界を“感覚的に”完全に把握する手段は、今のところまったく存在しない。
もし私があなたの目に映る世界を、あなたの見たままの状態において見たいと思ったら、私はあなたの目を通して世界を見なければならない。あなたの眼球からあなたの視神経を通じて現れ、あなたの脳内で処理された情景を、私の脳が直接認識しなければならない。その結果、あなたの目に映る世界は私の目に映る世界に比べて、より色鮮やかかもしれないし、よりくすんでいるかもしれない。より赤味がかっているかもしれないし、より白っぽいかもしれない。私の目に映らないような残像が風景に重なっているかもしれない。
では、無数の人が無数に異なったように認識しているこの世界について、「標準的な感覚モデル」のようなものは成立するのだろうか。
結論から言えば、一応成立はする。印刷物の色見本やテレビのテストパターンのようなものを思い出していただければいい。ただし、私たちは「標準的な感覚モデル」についてもやはり人によって千差万別に知覚するので、感覚的認識そのものとしてモデルを共有するのではなく、
「この色見本のこの部分を“標準的な赤色”とすることにします」
といったような、“決まりごとの共有”として標準モデルを共有するしかない。上に引用した可視光線の話で言えば、電磁波の波長とそのスペクトルパターンとして表された図表や数式などが、この標準モデルに当たる。
このような標準モデルは、種種雑多な感覚を持った不特定多数の人が実際の経験として押しなべてまったく同じように認識することを期待して、作られるものではない。同じ標準モデルに描かれた赤色を不特定多数の人が見たら、この赤色が見る人全てにとってまったく同じような色合いに見えるという保証は、やはり無い。
ただ、人間の意識内の認識が具体的にどうであるか(かすんで見えるかぼやけて見えるか、紅色に見えるかやや朱に近く見えるか)とは別に、誰が見ても「ああ、そこにあるな」ととりあえず存在だけは認識できるようなモデルを、意識の外に(多くの場合には物理的に)用意しておくことによって、万人がこの外的なモデルを基準としながら自分の認識の具合を自己判断したり、他人との相違をこのモデルを通じて間接的に測定したりするという用途に利用できる。
別の例。
一般的に用いられる視力検査表は、一箇所に狭い隙間の開いた様々な大きさの円を段階的に描いて、(完全に視力を失っている人を除けば)誰もが存在だけは認識できる外的な指標として配置し、そのうちどの程度の円(の隙間)までを認識できるかという基準を用いる(この形式の検査表を「ランドルト環」と呼ぶらしい)。これは、それぞれの人の視覚認識の状態をそれ自体として直接的に示すものではないが、「この大きさの円(の穴)が識別できるならこの人はこの程度の視力を持っている'''と見なすことができる'''」ということを、外部の人間が判断することに役立つ。視力検査の表もまた、共有された“決まりごと”を表している標準モデルのひとつなのだ。
裏を返せば、こういうことも言える。
視力検査表には視力0.1から2.0までの環が段階的に描かれており、裸眼で2.0まで識別できれば一般に視力がいいとされるが、仮に裸眼で視力が0.1以下だったとしても、それによって別に価値序列の優劣が決定されるわけではない。視力がいいほうが日常生活の上で何かと役立つには違いないが、
「標準モデルは2.0まで描いてあるのだから、人間の目は2.0まで見えるべきだ」
などという規範が普遍的に成立するわけではない。運転免許の許可条件など特殊な事例における限定的な規範は成立するが、この規範はあくまでも道路交通法など限定的された領域の規範体系に由来し根拠づけられているものだ(厳密には同法施行規則第23条)。標準モデルは規範と連動して、規範に判断基準・参照基準を与えることがあるが、モデルそのものが規範の正当性を直接的に根拠づけているわけではない。
これを混同すると、不特定多数に提示されている一般的な標準モデルから、「万人はこうあるべきだ」という規範的メッセージが直接的に発せられてるかのように認識されてしまう。視力検査表に描かれたワッカそのものが「どうした、おまえはこんな易しいところすら見分けられないのか、この役立たずが!」と叱咤しているように感じられてしまう。
その時私たちはきっと、「我々とは別の(=私たちの標準モデルから逸脱した)思惟的存在者の直観」の存在を許さない思考に陥るのだろう。その判断の基準として自分の目に映っている標準モデルもまた、カントが「物自体」と呼んだ対象そのものの実相などではなく、「自分の目に映っている限りでの標準モデルのイメージ」に過ぎないということにも気付かぬままに。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20936755.html】
カントは『純粋理性批判』の中で“宇宙人”の存在に言及している……というのは、まったくの嘘ではない。
我々は感性の特殊な条件を、物を可能ならしめる条件とすることはできない。我々はこれを、物の現象を可能ならしめる条件となし得るだけである。それだから『空間は、我々に外的に現れる限りの一切のものを含む』、と言うことはできるが、しかし『一切の物自体を含む』、と言うことはできない。この場合に、たとえ物自体が直観せられようとせられまいと、またどんな主観によって直観せられようと、それは問題でない。我々とは別の思惟的存在者の直観については、これらの存在者が、我々の直観を制限している条件や、また我々に普遍的に妥当する条件と同じ条件によって制限されているかどうかを判断することはまったく不可能だからである。
(カント『純粋理性批判』43; 篠田英雄訳、岩波文庫、1961年、p.94-95)
表現はややこしいが、平たく言えばこういうことだ。
人間の五感に感じられるこの世界の様子は、世界そのものの実相をありのままに映し出した真実の姿などではなく、あくまでも人間の感覚器官を通して感じられる限りでの世界の姿であるに過ぎない。「我々とは別の思惟的存在者」(宇宙人?)については、「我々の直観を制限している条件や、また我々に普遍的に妥当する条件と同じ条件によって制限されているかどうかを判断することはまったく不可能」であるため、宇宙人の目から見て「外的に現れる限りの一切のもの」が、人間の目から見て「外的に現れる限りの一切のもの」と比べてどのように違うのかは、人間には全く知る術もない。
例えば、人間の視覚はこの世界を「総天然色」で見ることができると信じられているが、実際には人間の目では知覚できない色彩というものがいくらでも存在する。
【問】
可視光線の領域以外の光って人にはどう感じるんでしょうか??
それは見えないんだよ、と思ってしましますが、それって透明なのかな??
領域端の色が赤とか紫なのでなんとなく黒にも思えてしまうのですが…
人に感じないと考えればやっぱり透明なんでしょうかね??
【答】
これは、答はありません。
光の色を、何色に感じるかは、動物によって違うのです。
人間なら、300nmの光は薄い紫で、それより短波長の光は、透明に見えると感じるのですが、虫の場合、250nmの光でも見えるそうです。ただし、虫にとっては何色に見えるのか、についてはいまだ解明されていないと思います。
要するに、光の色というものは、動物によって違う色に見えるわけです。650nmが赤色だ、と言っているのは人間だけかもしれません。
もしかしたら、ラジオ波が見える動物もいるかもしれません。そういう動物にとっては、ラジオが流れると、色がラジオから出ているように見えるのかもしれませんね。
(Yahoo!知恵袋 「可視光線の領域以外の光って人にはどう感じるんでしょうか?」)
こうした生物にとっての「総天然色」は、人間にとっての「総天然色」とはおよそ異なったものとなっているだろう。
異なった生物同士の間だけではない。同じ人間同士でも感覚の微妙な個体差はやはり存在する。先天的な要因(あるいは後天的だが器質的な要因)による場合もあれば、後天的な経験の差異に由来することもあるが、いずれにせよ世界の現れ方は人によって少しずつ異なっている。端的な例としては色覚異常が挙げられるが、他にも視力2.0の人と視力0.1の人の世界は同じではありえないし、音感の違いや味覚の違い、痛みに対する感じ方の違いなどといったものがいくらでもある。
そして、私たちが他人の感覚する世界を“感覚的に”完全に把握する手段は、今のところまったく存在しない。
もし私があなたの目に映る世界を、あなたの見たままの状態において見たいと思ったら、私はあなたの目を通して世界を見なければならない。あなたの眼球からあなたの視神経を通じて現れ、あなたの脳内で処理された情景を、私の脳が直接認識しなければならない。その結果、あなたの目に映る世界は私の目に映る世界に比べて、より色鮮やかかもしれないし、よりくすんでいるかもしれない。より赤味がかっているかもしれないし、より白っぽいかもしれない。私の目に映らないような残像が風景に重なっているかもしれない。
では、無数の人が無数に異なったように認識しているこの世界について、「標準的な感覚モデル」のようなものは成立するのだろうか。
結論から言えば、一応成立はする。印刷物の色見本やテレビのテストパターンのようなものを思い出していただければいい。ただし、私たちは「標準的な感覚モデル」についてもやはり人によって千差万別に知覚するので、感覚的認識そのものとしてモデルを共有するのではなく、
「この色見本のこの部分を“標準的な赤色”とすることにします」
といったような、“決まりごとの共有”として標準モデルを共有するしかない。上に引用した可視光線の話で言えば、電磁波の波長とそのスペクトルパターンとして表された図表や数式などが、この標準モデルに当たる。
このような標準モデルは、種種雑多な感覚を持った不特定多数の人が実際の経験として押しなべてまったく同じように認識することを期待して、作られるものではない。同じ標準モデルに描かれた赤色を不特定多数の人が見たら、この赤色が見る人全てにとってまったく同じような色合いに見えるという保証は、やはり無い。
ただ、人間の意識内の認識が具体的にどうであるか(かすんで見えるかぼやけて見えるか、紅色に見えるかやや朱に近く見えるか)とは別に、誰が見ても「ああ、そこにあるな」ととりあえず存在だけは認識できるようなモデルを、意識の外に(多くの場合には物理的に)用意しておくことによって、万人がこの外的なモデルを基準としながら自分の認識の具合を自己判断したり、他人との相違をこのモデルを通じて間接的に測定したりするという用途に利用できる。
別の例。
一般的に用いられる視力検査表は、一箇所に狭い隙間の開いた様々な大きさの円を段階的に描いて、(完全に視力を失っている人を除けば)誰もが存在だけは認識できる外的な指標として配置し、そのうちどの程度の円(の隙間)までを認識できるかという基準を用いる(この形式の検査表を「ランドルト環」と呼ぶらしい)。これは、それぞれの人の視覚認識の状態をそれ自体として直接的に示すものではないが、「この大きさの円(の穴)が識別できるならこの人はこの程度の視力を持っている'''と見なすことができる'''」ということを、外部の人間が判断することに役立つ。視力検査の表もまた、共有された“決まりごと”を表している標準モデルのひとつなのだ。
裏を返せば、こういうことも言える。
視力検査表には視力0.1から2.0までの環が段階的に描かれており、裸眼で2.0まで識別できれば一般に視力がいいとされるが、仮に裸眼で視力が0.1以下だったとしても、それによって別に価値序列の優劣が決定されるわけではない。視力がいいほうが日常生活の上で何かと役立つには違いないが、
「標準モデルは2.0まで描いてあるのだから、人間の目は2.0まで見えるべきだ」
などという規範が普遍的に成立するわけではない。運転免許の許可条件など特殊な事例における限定的な規範は成立するが、この規範はあくまでも道路交通法など限定的された領域の規範体系に由来し根拠づけられているものだ(厳密には同法施行規則第23条)。標準モデルは規範と連動して、規範に判断基準・参照基準を与えることがあるが、モデルそのものが規範の正当性を直接的に根拠づけているわけではない。
これを混同すると、不特定多数に提示されている一般的な標準モデルから、「万人はこうあるべきだ」という規範的メッセージが直接的に発せられてるかのように認識されてしまう。視力検査表に描かれたワッカそのものが「どうした、おまえはこんな易しいところすら見分けられないのか、この役立たずが!」と叱咤しているように感じられてしまう。
その時私たちはきっと、「我々とは別の(=私たちの標準モデルから逸脱した)思惟的存在者の直観」の存在を許さない思考に陥るのだろう。その判断の基準として自分の目に映っている標準モデルもまた、カントが「物自体」と呼んだ対象そのものの実相などではなく、「自分の目に映っている限りでの標準モデルのイメージ」に過ぎないということにも気付かぬままに。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20936755.html】
「仮面ライダー」のイメージ。 (2009年08月13日)
ライダーというより「石ノ森ヒーロー」のイメージでしょうか。ライダーというと今ではいろいろあり過ぎるので。
石ノ森ヒーローでよく取り上げられる特徴的なモチーフとして指摘されるのは、「同族同士の闘い」「改造人間の悲哀」といったあたりです。ヒーローの戦いにおいてこのモチーフは、敵組織によって与えられた呪われし強大な力と引き換えに自分自身の人間としての人生を奪われた主人公が、その呪われた力を敵組織に向け返すことによって人間を守るという構図になります。でもこの時の主人公にとって、守るべき人間はすでに自分の“同族”ではなくなっています。
つまり主人公は、自分を襲った運命を他の人間に負わせないようにするために、言い換えれば「こんな目に遭うのは自分が最後の一人で済むように」戦うわけです(自分自身のための復讐という契機も含まれますが)。決して自分の運命を他人と分かち持とうとはしない。自分ばかりがこんな目にあうのは不公平だから他人も自分と同じ運命を共有するべきだ、とは決して考えない。石ノ森ヒーローに見られる孤立感・孤独感は恐らくそこに由来するのでしょう。
そう考えると、実は石ノ森ヒーローって、あくまでも自分自身に対して「自分もこうありたい」と言い聞かせるためのロールモデルなのであって、その域を越えて他人に向かって「君もこうあるべきだ」と言えるような性格のものではないのかもしれません。「君も本郷猛のようにあるべきだ」というのは、言い換えれば「どんなに不公平な運命を蒙っても“自己責任”で耐え忍ぶべきだ、他人に助けを求めちゃいけない」ということになってしまいます。考えすぎかもしれませんけどね。
……さて、頭の準備体操も終わったところで、「オールライダー対大ショッカー」いつ観に行こうかなー。w
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20914818.html】
石ノ森ヒーローでよく取り上げられる特徴的なモチーフとして指摘されるのは、「同族同士の闘い」「改造人間の悲哀」といったあたりです。ヒーローの戦いにおいてこのモチーフは、敵組織によって与えられた呪われし強大な力と引き換えに自分自身の人間としての人生を奪われた主人公が、その呪われた力を敵組織に向け返すことによって人間を守るという構図になります。でもこの時の主人公にとって、守るべき人間はすでに自分の“同族”ではなくなっています。
つまり主人公は、自分を襲った運命を他の人間に負わせないようにするために、言い換えれば「こんな目に遭うのは自分が最後の一人で済むように」戦うわけです(自分自身のための復讐という契機も含まれますが)。決して自分の運命を他人と分かち持とうとはしない。自分ばかりがこんな目にあうのは不公平だから他人も自分と同じ運命を共有するべきだ、とは決して考えない。石ノ森ヒーローに見られる孤立感・孤独感は恐らくそこに由来するのでしょう。
そう考えると、実は石ノ森ヒーローって、あくまでも自分自身に対して「自分もこうありたい」と言い聞かせるためのロールモデルなのであって、その域を越えて他人に向かって「君もこうあるべきだ」と言えるような性格のものではないのかもしれません。「君も本郷猛のようにあるべきだ」というのは、言い換えれば「どんなに不公平な運命を蒙っても“自己責任”で耐え忍ぶべきだ、他人に助けを求めちゃいけない」ということになってしまいます。考えすぎかもしれませんけどね。
……さて、頭の準備体操も終わったところで、「オールライダー対大ショッカー」いつ観に行こうかなー。w
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20914818.html】
うーむ (2009年08月12日)
久々に会った妹君が、最近2012年とかアセンションとかって話に興味があるようなことをのたまっておられた。
まあ互いに自分の趣味を押しつけるようなことはないので、特段にヘンなイベントでも起きない限り別に関与も干渉もするつもりはないんだけど、身近な人がスピリチュアルな方向の話をし始めると気分的に少々落ち着かなくなったりもする。近代思想史に引っかかってくる話(ロシア・コスミズムとかゲオルゲ・クライスとかそのへん)なら俺も何とか話につきあえるんだけどなあ。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20912067.html】
まあ互いに自分の趣味を押しつけるようなことはないので、特段にヘンなイベントでも起きない限り別に関与も干渉もするつもりはないんだけど、身近な人がスピリチュアルな方向の話をし始めると気分的に少々落ち着かなくなったりもする。近代思想史に引っかかってくる話(ロシア・コスミズムとかゲオルゲ・クライスとかそのへん)なら俺も何とか話につきあえるんだけどなあ。
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20912067.html】
"The past should give us hope." (2009年08月11日)
地上波で『時をかける少女』(2006年公開のアニメ版)を放送していたので見ていました。ちょいと無粋なカットもあったりしましたが(この作品でエンディングのカットはねーよ)、久しぶりに見てまた目もとがうるうる。トシのせいか最近涙腺が緩いんだわさ。w
タイトルは黒板に書いてあった文字……ではなくて(本作のほうは「Time waits for no one」でしたな)『仮面ライダー電王』のほうなんですが、私の頭の中ではこの両作品がなんとなくセットになっているのです。セット価格でおトク、じゃなくって、どちらも「未来を自分の手でつくる」ことに対して明るいビジョンを指し示した作品だと思うのですよ。一枚の絵を通して「未来で待ってる」人にこの世界をつないでいく真琴(時かけ)と、酸いも甘いもすべて取り混ぜた大切な記憶を積み重ねた先に「いつか、未来で…」と絆がつながっていることを確信する良太郎(電王)。どちらも、客観的・無時間的なデータや公式には還元されない日々の人生の積み重ねに未来への希望を託すという、2000年代ならではの(?)「希望」のありかを見せた作品なのではないかと思います。
(かくして『電王』のテレビ版本編ですっかり満足しきった私は後番組の『キバ』をぜんぜん見る気にならなくて、それ以来まだ見ていないのです……『ディケイド』で戻ってきちゃったけど)
……この話をし始めると本当に止まらなくなってしまうので強制中断。w
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20886854.html】
タイトルは黒板に書いてあった文字……ではなくて(本作のほうは「Time waits for no one」でしたな)『仮面ライダー電王』のほうなんですが、私の頭の中ではこの両作品がなんとなくセットになっているのです。セット価格でおトク、じゃなくって、どちらも「未来を自分の手でつくる」ことに対して明るいビジョンを指し示した作品だと思うのですよ。一枚の絵を通して「未来で待ってる」人にこの世界をつないでいく真琴(時かけ)と、酸いも甘いもすべて取り混ぜた大切な記憶を積み重ねた先に「いつか、未来で…」と絆がつながっていることを確信する良太郎(電王)。どちらも、客観的・無時間的なデータや公式には還元されない日々の人生の積み重ねに未来への希望を託すという、2000年代ならではの(?)「希望」のありかを見せた作品なのではないかと思います。
(かくして『電王』のテレビ版本編ですっかり満足しきった私は後番組の『キバ』をぜんぜん見る気にならなくて、それ以来まだ見ていないのです……『ディケイド』で戻ってきちゃったけど)
……この話をし始めると本当に止まらなくなってしまうので強制中断。w
【※ このエントリはミラー投稿記事です。初出はhttp://blogs.yahoo.co.jp/rectol4/20886854.html】
