電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

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無限の知識、有限の私 (2008年12月04日)

 大きな本屋に行ってみたとしましょう。どこでもいいです。ちなみに私がイメージするのは八重洲ブックセンター本店か紀伊国屋書店新宿本店あたりでしょうか。本屋ではなく図書館でも構いません(その場合には以下の「本屋」を「図書館」に読み替えてください)。
20081204.jpg
東京オペラシティ(写真と本文はまったく関係ありません)
  広い店内にたくさんの本が並んでいます。中には読んだことのある本もありますが、たいていの人にとっては、読んだことのない本のほうが遥かに多いのではないでしょうか。
 また、大きな本屋ではジャンルごとにフロアやコーナーを分けていることが多いと思いますが、その中には私が一度も足を踏み入れたことのないフロアやコーナーがあります。例えば機械工学や看護学といったコーナーの本は私にはまったく縁のないものですし、日本古代史や行政法に関する本や洋書が集中しているコーナーでは、たまに気紛れで手に取ってぱらぱらめくってみることはあっても、そのままその本をレジに持っていくことはまずありません。
 こうした本の山の一冊一冊は、誰かが書かなければ決して本として成立することはありませんし、またどのジャンルの本に対しても必ずそれなりの需要はあるものです。私自身にとって縁がない本も、他の誰かにとっては深い縁がある本であったりします。私にとって縁のある知識、Aさんにとって縁のある知識、Bさんにとって縁のある知識、その他不特定多数のそれぞれにとって縁のある諸々の知識が一ヶ所の本屋に集中することによって、本屋という場は不特定多数の知識が集積し、誰もがそれにアクセスできるような場となります。
 でも、いつでも誰でもアクセス可能であるという「可能的に持ち得る知識」がそこにあるからといって、それは私自身が既に持っている「現実的に持っている知識」とイコールではありません。仮に「可能的に持ち得る知識」をできる限り「現実的に持っている知識」の領域に持ってこようと努力したところで、私はたぶん紀伊国屋本店のフロア一階分の一割程度に当たる領域すら読破できずに一生を終えることになるでしょう。むしろ一割も読破できたら相当な“本の虫”だと思います。

 この本屋全体にぎっしり詰まっている知識の山を「人類全体の知識」、その中で私自身が持っている知識(たぶん紀伊国屋一階分の敷地のうち0.1パーセント未満の領域に詰まっている本に相当)を「私の知識」としましょう。
 近代の学問的知識の開放的な性格は、本屋の「いつでも誰でも入れる」というところに相当します。一方で、学問の敷居の高さは「私の頭で内容を理解できるコーナーが限られている」というところに、そして私が一生の間に知ることの出来る学問的知識はごく限られたものであるという事情は「私が一生のうちに読むことの出来る、あるいは既に読んでいる本は本屋全体のうちごくごく一部でしかない」というところに相当します。
「人類全体の知識」は膨大ですが、この膨大な知識の集積は不特定多数の人間集団による分業によって初めて可能となるものであり、その中で「私の知識」や「これから私の知識になり得るもの」が占める割合は、ごくごくわずかなものなのです。

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