電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

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今ごろになって『仮面ライダークウガ』を見ている件について。 (2008年11月22日)

 私の生活している地では、ここのところ、突き抜けたような青空の日が続いています。
 今日などは、頭上には澄み切った青空、肌には晩秋のちょっと肌寒い空気、地上には近所の家の庭木に生った柿の橙色、そして焚火の煙の臭いと、まるで「日本の美しい四季」をそのままパッケージにしたような空間に出会いました。
 でも、美しい青空って、見ていてどこか哀しい気分になることもありますね。ユーミン先生も「悲しいほどお天気」なんて歌っていましたが。昔と変わらぬように見える壮大な青空とそれを見ている自分とを無意識に対比させることで、こういう気分が生まれてくるのかもしれません。永劫的であるかのように繰り返される壮大な自然の営みの前には、一人一人の人生なんてなんだかちっぽけで刹那的で、すぐに壊れてしまう矮小なものとしか感じられないのかも。

 さてさて本題。青空と言えば、最近の私はまだ観ていなかった昔の特撮ヒーロー作品をちょくちょく観ることがありまして、今日は放送後7年を経ても根強いファンの多い『仮面ライダークウガ』の第5〜8話を観ていました。部分的につまみ食いして観てはいたんですが、最初からきっちり連続して観るのは初めてです。
 桜子さんが古代文字解析でクウガの力の使い方を発見してピンチに対する突破口を発見するというのは、一見するとヒーローものにはありがちな展開のようでもありますが、グロンギのゲームに翻弄されながら必死に対抗しているクウガや警察の姿を見ていると、超自然的な能力における彼我の戦力の差を、文字記号の解析という学問的・理性的な認識手段、つまり人間ならではの方法によってカバーしようという方向性が見て取れます。「グロンギ=超自然的能力95+理性的能力5」に対して「クウガ=超自然的能力50+理性的能力50」で対抗、みたいな感じでしょうか。人間の理性的能力の持つ機能的なメリットは、人間が個体の能力によるアドバンテージではなく社会的な協力関係によって他の生物種に対する優越性や自然環境からの脅威に対する抵抗力をを得るという点にあり、警察が未確認生命体の捜査という形で事実上クウガの側面援護の役割を果たしているというのも、これに類しています。この作品における「人と人とのつながり」は、五代や一条刑事や桜子さんとその周辺のレギュラー陣たちだけに限られているのではないということでしょう。
 しかも、これは単に共同体主義的に称揚されているわけではなく、7〜8話では社会的つながり・共働関係によって生存と繁栄を維持している人間社会の陥穽が、第1話で未確認生命体第0号に殺された夏目教授の娘・実加に象徴されて語られます。システム的に整序された社会構造の中では、一人一人の個人の生死の“意味”がしばしば取りこぼされますが、これは決して誰が悪いという話ではありません。一条刑事(と警察機構)は、不特定多数の人間に対する未確認生命体の脅威の全体に対処せざるを得ない以上、もっぱら0号だけを最優先とするわけにはいかない立場にあるわけですが、でも遺族にとっては実際に亡くなった人をないがしろにしているようにしか見えないし、その感情を“わがまま”と切って捨てることも私には出来ません(*01)。まあ一条刑事も「未確認による被害が現在進行形で出ているので今はそちらにも力を注がなければならない」とか何とか、一言くらい断ってから捜査に行けよとは思いましたが。ジャンが実加の持ってきた証拠品を見て、つい自分の学問的興味を前面に出して彼女に反発されてしまった下りも、学問的な世界認識はまず第一に客観的な認識の拡大のためにあるのであって直接的に人を救うことを目指しているわけではないという事情の反映であるかのように見えます。
 マクロな戦いの意義とミクロな人生の意味との齟齬を正面から取り上げるプロットは、最近では『仮面ライダー電王』にもありましたが(モモタロスたちが消えるかもしれないにも関わらず戦い続ける良太郎の内面の齟齬として)、こういう要素を丹念に拾われると物語世界に厚みが出ますね。冒頭に書いた哀しい青空の話ではありませんが、システムそのもの(警察機構であれ科学的知識体系であれ)は不特定多数の人間全体のために構築されたものであっても、個別の人間の生に直接語りかけることを目指したものではないため、システムの中では個別の人間の取り扱いはしばしばちっぽけで矮小なものとなってしまいます。実加の反発は、このような社会的システムの機能の中では誰もが死んだ父親のことを気にも止めずに忘れようとしているかのように見えたことに端を発していました。
 だからこそ、完全な解決は無理にしても実加の心を受け止めることが出来たのは、警察機構や学問という抽象的な構築物の機能ではなく、彼女を救うために駆けつけてくる一条刑事や、「自分に出来ることをする」という形で彼女自身もまたこの社会につながっていくことを語りかけた五代という、一人一人の個人の顔でしかありえませんでした。人の“役に立つ”のはマクロな機能ですが、人を“救う”ことが出来るのは、やっぱりミクロでちっぽけで矮小な「人」だけだったのです。……うーむ、この展開はあまりにも私好みに過ぎます。恐るべし『クウガ』。続きを見るのが楽しみです。

  • (*01) 余談ですが、私は昨今よく使われる「モンスター○○」という言い方が好きではありません。こういうのはマクロな社会システムとミクロな個人の生活との間に生じる齟齬なのであって、それを「それはおまえの単なるわがままだからとにかくマクロの都合に合わせればいいんだ」と断言して済ませてしまう態度は、私にはあからさまな“思考停止”にしか見えないのです。

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