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Sting "Russians" (2008年11月16日)
NHK-BSで放送していた、失脚後のピノチェト将軍の裁判を手がけるチリの判事を取り上げたドキュメンタリーを見ているうちに、スティングの"They dance alone"という曲を思い出しました。
暴力の時代に奪われた命は、時代が変わっても決して戻って来ることはありません。でも、後に遺された人々は、それぞれの心の中でも社会的にも、様々な形でその“後始末”をします。それは必ずしも明白な「鎮魂」や「喪の仕事」の宗教的な姿を取るとは限りませんが、外形上は合理的行為であるかのように見える“後始末”も、その根底では合理的な説明ですべてを片付けることの出来ない、ある種の「情念」や「祈り」によってドライブされている部分があります。いつか自由を歌って笑える日が来ることを祈り、そしてその日が来たならば、将来の人々が同じような“孤独なダンス”を踊らなくても済むような世界であり続けることを祈るという心情が、法的訴追の手続きや調査や審理といった合理的行為の根底にだって、静かに力強く流れ続けることがあるのです。
この曲に限らず、スティングはしばしば強い政治的メッセージ性を打ち出した曲をリリースしています。
例えば、最初のソロアルバム「ブルー・タートルの夢 "The Dream of the Blue Turtles"」に収録されている"Russians"は、80年代当時に最後の盛り上がり(?)を見せた冷戦における憎悪の連鎖で、敵を“悪魔化”するあまりに相手もまた自分と同じ人間であることを忘れがちになってしまう発想を批判しています。
この曲の歌詞について、ちょっとおもしろい見方がありました。
確かに、子どもたちへの愛に破局回避の望みを託すというのは、少々ナイーブな意見に見えなくもありません。でも、これは果たして「愛さえあればOK」ということだったのでしょうか。私はむしろ、「子供たちへの愛」は戦争回避の“十分条件”(それさえあれば結果は保証される)ではなく、戦争回避のために最低限求められる“必要条件”(それがあったとしても結果は保証されないが、それがなければ負の結果=戦争が保証される)として提示されているようにも思えるのです。
「もし私たちが救われるとしたら、それはロシア人が私たちと同じように子供たちを愛しているかどうかにかかっている」……といった具合に、弱い仮定条件や婉曲表現としての可能性を示すmightが使用されているところに、一種の“自信の無さ”のようなものが現われているように見えます。この“自信の無さ”は、スティング自身によるロシア人への不信感の表明ではなく、西側の政治家(この歌ではレーガンがその代表となっています)に代表される一般的なロシア人敵対視の風潮が「We share the same biology」という事実をideology故に忘れさせてしまったり、“敵”は私たちと同じように「We share the same biology」などとは考えていないし子供たちを愛してなどいないはずだ(何故なら連中は“悪の帝国”だから)と思いこんでしまうという、「growing feeling of hysteria」故の嫌悪感の拡大に対する憂いの表明ではないかと思います。
西側の私たちと東側のRussiansとの間で、こうした不信感が相互にスパイラルを成してどんどん高まっているのが現状(歌詞が書かれた時点での)だとするならば、そのスパイラルに終止符を打つのは、もっとプリミティブな常識レベルで彼我に共有されている認識("no monopoly on common sense on either side of the political fence")、つまり「We share the same biology」や「the Russians love their children too」というところにしかないのではないか、ということです。「the Russians love their children too」であれば戦争が完全に根絶されるわけではないにせよ、でもエスカレートする現状の危機を核弾頭を撃ち合う事態になる前に食い止めるには、最低限必要な条件としてその認識を再確認する必要があるのではないか、というのがスティングの歌詞の要点であり、「子供たちへの愛」は「それさえあればOKの認識」ではなく「来るべき破局を食い止めるためにさしあたり緊急に必要な認識」として提示されているんだろうと私は思います。
だから、『「子どもたちへの愛」こそが争いを産む』という状況があれば、それについては「“子供たちへの愛”以外の何か」ではなく、「“子供たちへの愛”プラスアルファの何か」が必要となるわけです。
もう一つ。
これはこれで理解できなくはないのですが、ただ"Russians"の歌詞がそもそもどのような視点の取り方をしているかというと、「西側の人(スティング)が、同じ西側の人々に対して『ロシア人だって別に俺たちとそんなに違う人間じゃないんだよ』と説得する」という構図になっているんですよね。だから、「too」の元となっている“西側の常識”(「初めから自分達はそうなんだ!」)は、スティング自身が前提としていることではなくて、growing feeling of hysteriaの中で「俺たちはRussiansとは違うんだ」と思い込んでいる人々にとっての常識を指しているのだろうと私は捉えています。そういう意味で、この「too」はスティング自身の実感を示すというよりも、相手(同じ西側の人々)に対して主張の説得力を高めるための話法として使用されているのではないでしょうか。
【関連】
One day we'll dance on their graves
One day we'll sing our freedom
One day we'll laugh in our joy
And we'll dance
暴力の時代に奪われた命は、時代が変わっても決して戻って来ることはありません。でも、後に遺された人々は、それぞれの心の中でも社会的にも、様々な形でその“後始末”をします。それは必ずしも明白な「鎮魂」や「喪の仕事」の宗教的な姿を取るとは限りませんが、外形上は合理的行為であるかのように見える“後始末”も、その根底では合理的な説明ですべてを片付けることの出来ない、ある種の「情念」や「祈り」によってドライブされている部分があります。いつか自由を歌って笑える日が来ることを祈り、そしてその日が来たならば、将来の人々が同じような“孤独なダンス”を踊らなくても済むような世界であり続けることを祈るという心情が、法的訴追の手続きや調査や審理といった合理的行為の根底にだって、静かに力強く流れ続けることがあるのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
この曲に限らず、スティングはしばしば強い政治的メッセージ性を打ち出した曲をリリースしています。
例えば、最初のソロアルバム「ブルー・タートルの夢 "The Dream of the Blue Turtles"」に収録されている"Russians"は、80年代当時に最後の盛り上がり(?)を見せた冷戦における憎悪の連鎖で、敵を“悪魔化”するあまりに相手もまた自分と同じ人間であることを忘れがちになってしまう発想を批判しています。
この曲の歌詞について、ちょっとおもしろい見方がありました。
……もちろん、彼が東西の冷戦状態を真剣に扱っていることには共感する。ただ、「ロシア人も子どもたちを愛しているだろう(russians love their children, too)」ということに希望を見出そうとしている点が少しひっかかるのだ。
要するにこの歌は、ヒューマニズムや愛があれば争いは回避できるという発想・願いのようだ。しかし、これはあまりにも楽観的な気がする。逆に「子どもたちへの愛」こそが争いを産むこともあるだろう。「愛」というのは両面的なものだ。身内を愛すればするほど、身内を脅かすものを攻撃したい衝動に駆られる・・・。
(Muse on Music. 2006/4/4「愛は争いを防げるか?」)
確かに、子どもたちへの愛に破局回避の望みを託すというのは、少々ナイーブな意見に見えなくもありません。でも、これは果たして「愛さえあればOK」ということだったのでしょうか。私はむしろ、「子供たちへの愛」は戦争回避の“十分条件”(それさえあれば結果は保証される)ではなく、戦争回避のために最低限求められる“必要条件”(それがあったとしても結果は保証されないが、それがなければ負の結果=戦争が保証される)として提示されているようにも思えるのです。
We share the same biology
Regardless of ideology
What might save us, me and you
Is if the Russians love their children too
「もし私たちが救われるとしたら、それはロシア人が私たちと同じように子供たちを愛しているかどうかにかかっている」……といった具合に、弱い仮定条件や婉曲表現としての可能性を示すmightが使用されているところに、一種の“自信の無さ”のようなものが現われているように見えます。この“自信の無さ”は、スティング自身によるロシア人への不信感の表明ではなく、西側の政治家(この歌ではレーガンがその代表となっています)に代表される一般的なロシア人敵対視の風潮が「We share the same biology」という事実をideology故に忘れさせてしまったり、“敵”は私たちと同じように「We share the same biology」などとは考えていないし子供たちを愛してなどいないはずだ(何故なら連中は“悪の帝国”だから)と思いこんでしまうという、「growing feeling of hysteria」故の嫌悪感の拡大に対する憂いの表明ではないかと思います。
西側の私たちと東側のRussiansとの間で、こうした不信感が相互にスパイラルを成してどんどん高まっているのが現状(歌詞が書かれた時点での)だとするならば、そのスパイラルに終止符を打つのは、もっとプリミティブな常識レベルで彼我に共有されている認識("no monopoly on common sense on either side of the political fence")、つまり「We share the same biology」や「the Russians love their children too」というところにしかないのではないか、ということです。「the Russians love their children too」であれば戦争が完全に根絶されるわけではないにせよ、でもエスカレートする現状の危機を核弾頭を撃ち合う事態になる前に食い止めるには、最低限必要な条件としてその認識を再確認する必要があるのではないか、というのがスティングの歌詞の要点であり、「子供たちへの愛」は「それさえあればOKの認識」ではなく「来るべき破局を食い止めるためにさしあたり緊急に必要な認識」として提示されているんだろうと私は思います。
だから、『「子どもたちへの愛」こそが争いを産む』という状況があれば、それについては「“子供たちへの愛”以外の何か」ではなく、「“子供たちへの愛”プラスアルファの何か」が必要となるわけです。
もう一つ。
museさんも言ってる通り、「ロシア人も子どもたちを愛しているだろう(russians love their children, too)」にひっかかりました。ロシア人もって、初めから自分達はそうなんだ!ってコトかい?その段階で相手を差別してないか?ってな疑問を持ってたんです。無差別な愛はやっぱ難しいってコトでしょうか…
(同、コメント欄より)
これはこれで理解できなくはないのですが、ただ"Russians"の歌詞がそもそもどのような視点の取り方をしているかというと、「西側の人(スティング)が、同じ西側の人々に対して『ロシア人だって別に俺たちとそんなに違う人間じゃないんだよ』と説得する」という構図になっているんですよね。だから、「too」の元となっている“西側の常識”(「初めから自分達はそうなんだ!」)は、スティング自身が前提としていることではなくて、growing feeling of hysteriaの中で「俺たちはRussiansとは違うんだ」と思い込んでいる人々にとっての常識を指しているのだろうと私は捉えています。そういう意味で、この「too」はスティング自身の実感を示すというよりも、相手(同じ西側の人々)に対して主張の説得力を高めるための話法として使用されているのではないでしょうか。
【関連】
- Muse on Music. 2006/4/4「愛は争いを防げるか?」
- iKnow! 2008/8/4「Sting - Russians」
- Reason To Live 「ラシアンズ 〜Russians 」byスティング
- The Cat's Meow「Sting “Russians”(1985)」
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