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立場の違い (2008年11月08日)
筑紫哲也氏の訃報に関連して。
このような違和感が生じるのは不可避であるようにも思います。「アカデミズム」に軸足を置くか「ジャーナリズム」に軸足を置くかによって、恐らく思想に対する構えにも違いが現れてくるのではないでしょうか。理念的に言えばアカデミズムでは原則として学生が自発的に“入門”し、学生が学問の側に自らを合わせることになります。しかしジャーナリズムは大衆に“知ってもらう”という立場に当たるので、読者や視聴者に対して「判らなければそれはおまえの勉強不足なのだからおまえのほうから這い上がってこい」などというスタンスを取ることはなかなか出来ません。ジャーナリズムの送り出すメッセージに啓蒙的な意図が含まれていたとしても、相手となる大衆はやはり「お客様」なのであって、「学生」でも「門下生」でも「修行僧」でもありません。
自分の文脈に対象のテクストを引き寄せるのではなく、逆に相手のテクストの文脈に即して自らの思考の道筋を適宜組み替えていくという作業は、特に興味のある人でもない限り面倒だしややこしいものです。ましてやテクストの文脈が大量の予備知識や予備的考察を必要とするものであれば、なおのことそう言えます。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の序文の冒頭で、「おそらく本書は、ここに表されている思想 ── ないしそれに類似した思想 ── をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」(野矢茂樹訳、岩波文庫、p.9)とことわりを入れているのも、これに共通していると言えるかもしれません。
(ちなみにこの序文は、本論における論理空間の概念や「世界の空間は論理の限界である」(5.61)といった、一種の通約不可能性を巡る議論にも直結しているように思えます)
当時の『朝日ジャーナル』は、社会評論や現代思想といった、どうしたって暗いイメージを払拭できないタイプの議論を、かみ砕いて、面白おかしく提示することに長けた雑誌だったような気がします。「脱構築」の特集なんてのも、ありました。ただ、「脱構築というのは、要するに、テクストなんてどう読んだっていいってことです」(大意)的な、かなり危うい「通俗化」にも出くわすことがあって、いくら字数の限られた週刊誌の記事でも、もう少し丁寧に書けないのだろうか……などと、えらそうな不満を抱いていた学部生は、あたくしだけではなかったと思いますです。
編集長を辞めた前後に、大学生協が講演会に呼んだことがあって、質疑応答の際に「脱構築ってのはもうちょっと重い問題だと思うんですけど、ああいう安易な取り上げ方はどうなんでしょうか」という返答の仕様のないひどく失礼な質問(あたくしは昔からちっとも変わっていない)をぶつけたところ、「うん、でもあの特集、ずいぶんたくさんのひとに読んでもらえたし、みんな「わかった」って言ってくれましたよ」と返された記憶が。……
(略)
ある時期からあまり見なくなったN23で、印象に残っているのは、いつだったか、番組の終わりのところで、丸山眞男の『現代政治の思想と行動』について長々と話し出した回のこと(ゲストは宮崎哲弥だったような……)。「昔、これでずいぶん勉強したなあ」とか言いながら、『現代政治の思想と行動』の有名な一節を次々に引用しては「現代の日本政治にもあてはまるなー」的な詠嘆を繰り返していて、正直しんどかったというか。
わかりやすく、おもしろく、伝わりやすくするための工夫であったのかもしれないけれど、『現代政治の思想と行動』から、気の利いた文章を書き抜いて、半ば脊髄反射的に「ええなー」を繰り返すという読み方は、この本の読み方としてどうなんだろうかと。個々の論説には、個々の文脈があって、その文脈に照らしてこその丸山の洞察だと思うのですが、卓越した物書きであった丸山の文章の「花」の部分だけを切り取って愛でるという読み方は、ひょっとすると筑紫哲也の強さであり、弱さでもあったのだろうか、などとずいぶんいろんなことを考えさせられた記憶が。
(D's BLOG 2008/11/8「筑紫哲也」)
このような違和感が生じるのは不可避であるようにも思います。「アカデミズム」に軸足を置くか「ジャーナリズム」に軸足を置くかによって、恐らく思想に対する構えにも違いが現れてくるのではないでしょうか。理念的に言えばアカデミズムでは原則として学生が自発的に“入門”し、学生が学問の側に自らを合わせることになります。しかしジャーナリズムは大衆に“知ってもらう”という立場に当たるので、読者や視聴者に対して「判らなければそれはおまえの勉強不足なのだからおまえのほうから這い上がってこい」などというスタンスを取ることはなかなか出来ません。ジャーナリズムの送り出すメッセージに啓蒙的な意図が含まれていたとしても、相手となる大衆はやはり「お客様」なのであって、「学生」でも「門下生」でも「修行僧」でもありません。
自分の文脈に対象のテクストを引き寄せるのではなく、逆に相手のテクストの文脈に即して自らの思考の道筋を適宜組み替えていくという作業は、特に興味のある人でもない限り面倒だしややこしいものです。ましてやテクストの文脈が大量の予備知識や予備的考察を必要とするものであれば、なおのことそう言えます。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の序文の冒頭で、「おそらく本書は、ここに表されている思想 ── ないしそれに類似した思想 ── をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」(野矢茂樹訳、岩波文庫、p.9)とことわりを入れているのも、これに共通していると言えるかもしれません。
(ちなみにこの序文は、本論における論理空間の概念や「世界の空間は論理の限界である」(5.61)といった、一種の通約不可能性を巡る議論にも直結しているように思えます)
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