terra incognita

人生リハビリ日記。

……最も均質で「つつしみ」の気持ちを欠いて計画された現代の都市開発の空間ですら名称がつけられ、明瞭な中心と周辺地区とに組織立てられている。そして、まったくの郊外に住む人々ですら、そこに根をおろし、住んでいる場所へのかかわりを育んでいる(…)。そのような経験は、ハイデガーの描くシュヴァルツヴァルトの農民が自らの住まいについて経験するものとは明らかに同じではないし(…)、その家屋のつくりに現れたものと同じ濃密さと奥深さを持つこともできない。なぜなら、郊外の家々はカタログの中のデザインを用いた請負い業者たちの仕事によって建てられているのだから。しかし同時に、私たちはそれをより劣った経験であると安易に判断することはできない。なぜならそれは、人間の意志や希望や畏れを含むからである。幸福や絶望といった経験に関しては、私たちはそれを測る尺度を持ち合わせていないのだ(…)。

(エドワード・レルフ『場所の現象学』)

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マキアヴェリスト≠リアリスト? (2008年11月08日)

 なんとなく今日つらつらと読んでいた本からメモ。
 マキアヴェッリは通常リアリストと言われる。その趣旨は政治における力の契機を強調し、人間の非理性的、野獣的側面を処理すべく議論を展開した点にあるであろう。しかし彼が眼前の現実を追いかけまわすという意味での、いわゆるリアリスト(現実主義者)であったというのであれば、それは明瞭な誤解である。彼のarte dello statoは無原則にいわゆる現実に適応することを勧めるものではない。マキアヴェッリの眼からすれば、後者の如き態度は運命に自らを委ねるものであろう。畏友グイッチャルディーニが指摘したように彼の議論ははなはだドグマチックであり、statoの拡大という目的を徹底的に追求するものである。それは当然多くの犠牲とリスクを伴う、リゴリズムを内に秘めていた。マキアヴェッリはその要求がキリスト教的倫理といかに矛盾衝突するかを十分察知していた。その意味での規範的性格は疑うべくもない。それは一つの「空想的」プランであると言ってもよい。したがって現実になりうるプランではあったが、現実そのものではなく、常にその批判的原理として作動している。……

(佐々木毅『近代政治思想の誕生 ── 16世紀における「政治」』岩波新書、1981年、p.72-73)

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