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「こんなはずじゃなかったのに……」 (2008年11月08日)
先日読んでいたフェルディナン・アルキエ『マルブランシュ ── マルブランシュとキリスト教的合理主義』(藤江泰男訳、理想社、2006年)では、デカルトの新哲学によって神の栄光を増すことを何よりも第一に考えて練り上げられたマルブランシュの思索が、よりにもよって神を棄却するための強力な理論的武器を提供することになってしまったという、ある種皮肉な運命が強調されています。
自然の法則性を神の全能性の現れとして解したマルブランシュは、宇宙の創造主たる神の恩寵を奇蹟のような例外的事象の中にではなく、むしろ自然の通常の法則的運行の中に見出します。神の恩寵は単純な法則によってこの世界が構築されていること自体に既に現れており、奇蹟を強調することはむしろ神の天地創造の不完全さを示すものでしかないというわけです(世界の法則的調和に神を見る発想はライプニッツにも影響を与えています)。
しかし、神の恩寵を自然の法則性において機械論的に説明しようとしたマルブランシュの思索は、それ故に神抜きで機械的に成立する宇宙観へあと一歩というところまで迫っており、実際に18世紀フランス啓蒙主義の合理主義的精神やそれ以後の自然主義的な科学はその一歩を踏み越えることになります。
自然の法則性を神の全能性の現れとして解したマルブランシュは、宇宙の創造主たる神の恩寵を奇蹟のような例外的事象の中にではなく、むしろ自然の通常の法則的運行の中に見出します。神の恩寵は単純な法則によってこの世界が構築されていること自体に既に現れており、奇蹟を強調することはむしろ神の天地創造の不完全さを示すものでしかないというわけです(世界の法則的調和に神を見る発想はライプニッツにも影響を与えています)。
しかし、神の恩寵を自然の法則性において機械論的に説明しようとしたマルブランシュの思索は、それ故に神抜きで機械的に成立する宇宙観へあと一歩というところまで迫っており、実際に18世紀フランス啓蒙主義の合理主義的精神やそれ以後の自然主義的な科学はその一歩を踏み越えることになります。
……マルブランシュは、ますます<宇宙>の自然主義的理解へとわれわれを差し向ける。<自然>の諸法則のうちに、彼は、事物に働きかけることをわれわれに可能にするような諸関係を発見するにとどまらず、神の行為の諸法則さえも発見しようと目指すのである(この規則は、後で見るように、恩寵の分配にさえも適用されることになる)。奇蹟を否定することはないにしろ(略)奇蹟以上に、そして奇蹟よりも適切に、普遍的決定論の方が、神の行為に関して正当でその栄光にふさわしい観念をわれわれに与える、と彼は評している。
このようにして、われわれが聖書の神から自然学の神へ、つまり、ヴォルテールや百科全書、ルナンの神へと導かれるのが理解されるであろう。(略)……普遍的機械論は、至る処に同一の法則の結果を見いだすことで、唯一の神を呼び求めているように見える。近代の自然学は、一神教を基礎づけ正当化するのである。
(『マルブランシュ ── マルブランシュとキリスト教的合理主義』p.35-36)
……その哲学の目的は、機械論者の学問、当時中世的自然学に取って代わっていた機械論者の学問が、キリスト教に背反するどころではなく、それにとって有利であり、むしろその正当性を証明するものである、ということを示すことである。(略)
しかし、その帰結において考察すると、(略)それが自然学のうちに最も完全な認識を認め、さらに、機械論の諸法則のうちに神の行為の諸規則さえ認める限りにおいて、マルブランシュの哲学は、神を自然によって代替しようとする思惟の運動のうちに地位を占めることになる。つまり、18世紀の理神論者たちやルナン、更には多数の無神論者たち、メリエのような無神論者たちでさえ、かようにして、マルブランシュの精神的息子として出現するのである。
(同、p.105-106)
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