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正確性と速報性 (2008年10月19日)
ノーベル賞が決定すると、ものすごい勢いでwikipediaに記述が追加されます。
履歴を調べたところ、下村さんの受賞については昨日の日本時間18:49に「第一報」が追加されていたようです(遅くとも19:00までには追加されていたことは、別のところで確認できます)。
マスメディアのニュース速報なみに早いのではないでしょうか。
で、本当にこんなことに意味があるのか。というより、こんなのは無意味ではないかと僕は考えるわけです。
wikipedia自身に「Wikipediaはニュース速報ではありません。性急な編集は控え事実を確認し、正確な記述を心がけてください」と書かれています。これは見識であり、当然です。
百科事典を目指す以上、速報性よりも正確さを重視するべきであるように、僕には思えます。
事典ですから、ノーベル賞受賞を翌日書いたって、なにも困らないし、来月だってかまわない。授賞式後でもまったく問題はありません。
(略)
wikipediaの速報性を喜ぶ人もいますけれど、それは目的を見失っているのであって、むしろこのような態度は「拙速」であり、百科事典としての信頼性を失わせる行為ではないかと考えるのですが、いかがでしょう。
本当に「百科事典を目指す」気があるなら、こんなことはしないのではないかなあ。
(kikulog 2008/10/9「wikipediaの速報性」)
Wikipediaにしばしば速報志向が生じることについては、以前に女優の曽我町子氏が逝去された際、東映プロデューサー(「元」プロデューサーか?)の白倉伸一郎氏がこのようなことを書いていたことがあります。
23時前に一報を聞いて驚いたが、ウィキペディアの項に 13:39 の版ですでに没年が記されてたのを見つけて、驚きを通り越した。
一般報道前にネット上に……なんてことより、ある方が亡くなったと聞いた瞬間にすかさずカタログ化するという行為自体に空恐ろしさを感じる。
(A Study around Super Heroes 2006/5/8「【訃報】曽我町子さん」)
このようなリアルタイムでのカタログ化に対する違和感は、下記の記事における菊池氏の疑念とはやや方向性が異なりますが、どちらも「書き手の速報志向によってドライブされる辞典のあり方」に対する違和感という点では共通するものがありそうです。
菊池氏の記事のコメント欄では、Wikipediaのあり方をオープンソースでのソフトウェア開発と比較する見方も提示されています。この比較を少し掘り下げて考えてみると、ちょっとおもしろいことに気付きます。
ソフトウェアの開発をボランティアベースで行うことの長所は、特定少数の開発者ではなく不特定多数の開発者が参与するために、より多くの機能やより高度の利便性をもたらす機能がより短期間で効率よく入手できるようになることです。この場合、アウトプットとして得られるのは機能的な利得です。
一方、百科事典の機能的意義はアウトプットとして多くの知識を提供することであり、これをオープンソースソフトウェアになぞらえるなら、より多くの知識やより高度の知識をより短期間で効率よく入手できるようにするために、特定少数の専門家ではなく不特定多数のボランティアが広く浅く参与できるようにしてあるのが、従来型の百科事典と比較した場合のWikipediaの特徴となります。
実のところWikipediaの拙速性とされるものは、裏を返せばより素早く知識をデータベースとして収集・更新できるという長所の別の表れでもあり、情報が公開される前にまず正確性を吟味するというプロセスを組み込むことは、一方ではWikipediaのアドバンテージを殺すことにもつながります。従来型の百科事典と同じ正確性を目指すのであれば、一度収集したデータを公開前に専門的な立場から吟味する査読や編集のプロセスが一段組み込まれることになりますが、これは恐らく情報の正確性を担保する反面で情報流通量の隘路ともなりますし、また「この査読者・評価者は専門家であり評価を任せるに足る人物だ」ということをいったい“誰が”決めるのか、というメタレベルの問題も生じてきます。
たとえば専門家のみで執筆する方針を採用している百科事典プロジェクトというのも実際色々あるのですが、その記事数は大抵数千、多くて1万ほどです。
(略)
ウィキペディアの記事数が全言語版総計で1000万以上(うち英語版250万、日本語版50万)におよぶのと比較すると、方針の違いがもたらす情報量の違いというのはかなり明瞭かと思います。
「完全ではない情報であってもあった方がいい」と考えるか、「完全でない情報ならそもそもなくていい」と考えるか、そうした立場の違いも踏まえながら、とりあえず現在のウィキペディアはその中間地点を縫うような形でサイトを継続させている、というのが実際かと思います。
(「wikipediaの速報性」コメント欄より)
ウィキを使っていて非登録ユーザに編集を許す設定をしており(MediaWiki自体はユーザグループごとにパーミッション設定を出来ますので、非登録ユーザに編集禁止すること自体は技術的には可能です)、裏が取れなくてもとにかく書きたい人がいる以上、ご指摘のように信頼性<速報性となってしまうことは仕方がないと思います。というより究極には書き手の民度の問題なのでしょう。言語を問わず、現代のネットユーザーにはそういう性向があるということなのだと思います。
技術的な対処もいくつかの方法で試みられており、ドイツ語版ウィキペディアのように査読済みの閲覧用の版と誰でも編集できる版を提供するものや、英語版等を素材にしてなされている記述ごとの信頼性を表示するプロジェクトなどがあります。日本語版はこうした動きに追随する傾向に乏しいものですが、それが日本語話者ユーザコミュニティのある種の性質を反映しているのか、たんにマンパワー不足なのかは私にはわかりません。
(「wikipediaの速報性」コメント欄より)
Wikipediaは原則として「集合知」や「自生的秩序」とでも呼べるものを利用して、情報の極大化と編纂コストの極小化の両方を追求しながら事典的データベースを構築する試みであり、個別の記述ごとの正確性については、不特定多数のユーザーに利用されていくにつれ“自然に”淘汰されていくことを期待するというのが、基本的なスタンスなのではないかと思います。そのため、正確性を第一義に掲げるならばWikipediaはユーザーに時間的・手間的な「コスト」をかけさせる必要が発生し、その分だけWikipediaの現行の利便性の幾分か(例えば手軽さゆえに不特定多数が参与しやすいことで確保されている項目量の多さなど)は損なわれる可能性もあります。これが厳密なトレードオフ関係であるのかどうかは判りませんが、市場に任せる「小さな政府」と再分配を行なう「大きな政府」の違いを巡る話などをちょっと連想してしまいます。
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