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『装甲騎兵ボトムズ・赫奕たる異端』 (2008年10月12日)
十年以上前に一度見たきりの『装甲騎兵ボトムズ』OVAシリーズ『赫奕たる異端』を久しぶりに見ていて、最初に見た時には気付かなかったことがいろいろ見えてきたような気がしました。
1983年のTVシリーズ以後、OVA展開の中でキリコには「異能生存体」という設定が付加されました。多少鍛えているとは言え基本的には普通の人間に過ぎない一介の兵士が自己の力で運命を切り開くという展開に惹かれた私は、TVシリーズ終盤の「異能者」設定でさえ少々違和感を感じており、その上に殺しても死なない“最強設定”が加わるという展開は個人的にはあまり好きではありません。でも、このような設定のエスカレートによって、キリコというキャラクターに対する視点の取り方に、面白いコントラストが生じるようになりました。キリコを見る「身内の目」と、「外の世界の目」の違いです。
キリコを見る「外の世界」は、ギルガメスもバララントも、ロッチナやペールゼンも、宗教結社マーティアルも、“神”ワイズマンですらキリコの存在を特別視しこだわり続けます。「神の子」や「異能生存体」や「触れ得ざる者」として、肯定的にであれ否定的にであれキリコは特別な存在として注視されています。
しかし、当のキリコは自分の特別な位置づけにまったく頓着することがありません。それはフィアナや、ゴウト・バニラ・ココナの“3馬鹿トリオ”といった「身内」にとっても同じことです。この人たちにとってもキリコはある意味で「特別な存在」ではあるのですが、それは決して「触れ得ざる者」などという超越的な意味付けや「異能生存体」のような機能的評価によるものではなく、人生を共にしてきた絆から生まれた感情です。
キリコにとって、彼がごく普通の人間でいられる「場」。それがフィアナやあの3人と共にいることなのだとしたら、その「場」におけるキリコは、ごく普通の人間と同じように喜びや悲しみや……時には喪失感をも覚えざるを得ないではないでしょうか?
世界にとってキリコが致命的に重大であるように、キリコにとって致命的に重大なものとは、他でもないフィアナ。
世界がキリコを見る目と、キリコがフィアナを見る目とは、この点でパラレルな関係にあります。マーティアルはキリコをその力ゆえに「触れ得ざる者」と見なし、一方で(ロッチナの台詞にもありますが)キリコにとってフィアナもまた「触れ得ざる者」。これは単純にフィアナが死んだからというだけのことではありません。キリコにとってのフィアナは、もっとも近い存在であり、それ故にいなくなった時にはもっとも遠く感じられる“他者”なのです。観念的価値判断や機能的評価によってではなく、共に人生を生きた者同士だけが持ちうる絆の故に、かえって感じられる彼我の遠さ。
TVシリーズでは神を殺し、『赫奕』では神を信じる者たちの世界をひっくり返し、本人が意図していないところでも行く先々で結果的に破滅的な結果をもたらす(ウドやらクメンやらクエント星、『赫奕』でも工場衛星コンプラントが吹っ飛んでいる)という点で、キリコの人生の外側から彼を俯瞰するものにとっては、キリコというのは実際とんでもない存在です。「外の世界」にとって、キリコが「触れ得ざる者」とか神様(どっちかと言えば死神)同然の扱いをされるのも無理はありません。
でも、キリコ自身にとって、自分が異能者だろうが異能生存体だろうが触れ得ざる者だろうが、そんなことはフィアナの存在に比べればどうでもいいことに過ぎません。
『赫奕』のラスト。とりあえずマーティアル法王の座は維持しているらしいモンテウェルズの特使がキリコの下を訪れて、モンテウェルズとの和解とマーティアルへの協力を求めますが、キリコは歯牙にもかけず、「二度と俺に近づくな!」と一喝します。キリコが声を荒げて他人に感情をぶつけるという、ボトムズ全シリーズを通しても他ではあまり見られないこのシーンによって、キリコにとってのフィアナの存在の重みが強調されると同時に、32年前に神(ワイズマン)を殺されたことに震撼したマーティアル(モンテウェルズ)が、フィアナを死の運命に追いやることで自分たちもまたキリコに対して同じ“神殺し”の行為をしていたのだという点に、とうとう最後まで気付かなかったことも示されています。
考えてみれば『装甲騎兵ボトムズ』という作品は、銀河規模の戦乱が終息した後に残された個人レベルの傷痕という、戦争の規模に比べると一見スケールが小さいようにも非対称的にも見える描写を随所に散りばめてきました(戦災孤児のココナやサンサ戦で家族を全員失ったゾフィーなど)。ATやレッドショルダーやワイズマンにばかり目を奪われるとつい見過ごしがちですが、『ボトムズ』は「戦後」を舞台としながら随所で「戦争によって失われるもの」を丹念に拾っていたという印象があります。
『赫奕』の制作に当たって、高橋良輔監督自身は『ボトムズ』続編をあまり作りたがらなかったという話も聞きますが、もしかしたらフィアナの死には、異能生存体にまで膨れ上がったキリコの超人性を一度引き戻すために、「外から見れば超人に見えても、キリコもやはり戦争で何かを失うことのある一人の人間なのだ」ということを強調する意図があったのかもしれません。それが仮に以後のシリーズの続行を不可能にするものであったとしても(実際には『ペールゼン・ファイルズ』等の形で続きましたが)。
……で、まあそんなわけで(何がだ)、実は『ペールゼン・ファイルズ』も途中まで見ているんですが、あんまり続きを見る気にならんのですよ。3DCGなんかは別にどうでもいいのですが、私にとっての『ボトムズ』の意義は、あくまでも個人としてのキリコが紡ぎ出す意志や絆が宇宙規模の暴力世界を突き抜けていくところにあるわけで、だからこそキリコの意志や絆を繋ぎ止めるフィアナやゴウト達の存在はこの物語に必要不可欠なのです。そりゃまあ私もATは好きですが、あくまでも“あの”キリコの世界にあるからこそ相乗効果で作品世界の魅力を十割増にしてくれる小道具なのであって(でもキリコ抜きでも『メロウリンク』みたいなのはアリです)、「異能生存体」としてのキリコとATだけがポンと放り出されても、あんまり魅力は感じません。その点で『野望のルーツ』もそんなに好きな作品ではありませんし、『ペールゼン・ファイルズ』についてもバラエティに富んだ作戦の描写から「“ATの戦争”をばんばん見せちゃる!」という意気込みが込められているのは感じるんですが、「それって別に『ボトムズ』じゃなくてもいいんじゃないか?」なんてことも思ってしまうのです。
ついでと言ってはなんですが、ボトムズネタに便乗して、以前からちょっと気になっていたことをメモっておきます(トシがばれそうな話ですが)。
その昔「アニメック」という雑誌がありまして、他のアニメ誌同様にこの雑誌でも『ボトムズ』TVシリーズ本放送中に関連記事を掲載していたのですが、物語が終盤に近づくにつれて、「アニメック」誌の記事では作品全体のテーマをしばしば「キリコの魂の解放」と表現していました。まだややこしいことを考える頭の無かった(今も無いのか?)当時の私は、この「魂の解放」をちょっと変わった表現だと思いつつも「まあそう表現もあるのかなあ」と素直に受け取っていたのですが、今から考えると、これってニューエイジ運動とか新霊性運動などの文脈でよく使用されがちな言葉だったのではないでしょうか。
当時の「アニメック」の記事執筆者が実際にどういう意図をこの表現に込めていたのかまでは知る由もありませんが、当時「アニメック」や同誌から派生したムックは、他誌に先駆けて『機動戦士ガンダム』やその後の富野由悠季監督作品を濃密にフィーチャーしていたことを大きなセールスポイントにしていたように思います。この頃の富野作品は(全部が全部そうだというわけではありませんが)、『ガンダム』で“人の革新”としてのニュータイプが現われたり、『伝説巨人イデオン』で知的生命体がみな因果地平の彼方に魂を転生させていくといった描写がファンに強いインパクトを与えていましたが、こういった描写は、現在の人類の限界を超越して人類の魂がセカンドステージへ進化していくことに未来の希望を託すという点で、1970年代以降のニューエイジ運動・新霊性運動に極めて親和性の高いものだったように思います。富野氏自身の思惑がどこにあったのかはともかくとして、こういった作品群を「アニメック」編集者・執筆者陣が単なる仕事としてだけではなく一ファンとしても継続的にフォローし続けたことによって、富野作品から「テーマの読み方」について強い影響を受け、結果としてその後現れる作品についても、キャラクターがストーリー全体を通して何らかの意味で性格的な変化を見せる場合(とりわけ『ボトムズ』のように宇宙を舞台にしたり神と人との対峙が山場になっている作品の場合)には、そこに「人類の魂の進化」や「束縛された魂の解放」のようなテーマを読み込む傾向が現われてしまったのではないか、と私は想像します。これもある意味では80年代の「時代の空気」のようなものだったのかもしれません。
【関連(ガンダムとニューエイジの関係あたり)】(以前に『電波男』の本田透さんも「しろはた」でそんな話題の文章を書いていたように思いますが、もうWeb上では読めないのかな?)
1983年のTVシリーズ以後、OVA展開の中でキリコには「異能生存体」という設定が付加されました。多少鍛えているとは言え基本的には普通の人間に過ぎない一介の兵士が自己の力で運命を切り開くという展開に惹かれた私は、TVシリーズ終盤の「異能者」設定でさえ少々違和感を感じており、その上に殺しても死なない“最強設定”が加わるという展開は個人的にはあまり好きではありません。でも、このような設定のエスカレートによって、キリコというキャラクターに対する視点の取り方に、面白いコントラストが生じるようになりました。キリコを見る「身内の目」と、「外の世界の目」の違いです。
キリコを見る「外の世界」は、ギルガメスもバララントも、ロッチナやペールゼンも、宗教結社マーティアルも、“神”ワイズマンですらキリコの存在を特別視しこだわり続けます。「神の子」や「異能生存体」や「触れ得ざる者」として、肯定的にであれ否定的にであれキリコは特別な存在として注視されています。
しかし、当のキリコは自分の特別な位置づけにまったく頓着することがありません。それはフィアナや、ゴウト・バニラ・ココナの“3馬鹿トリオ”といった「身内」にとっても同じことです。この人たちにとってもキリコはある意味で「特別な存在」ではあるのですが、それは決して「触れ得ざる者」などという超越的な意味付けや「異能生存体」のような機能的評価によるものではなく、人生を共にしてきた絆から生まれた感情です。
キリコにとって、彼がごく普通の人間でいられる「場」。それがフィアナやあの3人と共にいることなのだとしたら、その「場」におけるキリコは、ごく普通の人間と同じように喜びや悲しみや……時には喪失感をも覚えざるを得ないではないでしょうか?
世界にとってキリコが致命的に重大であるように、キリコにとって致命的に重大なものとは、他でもないフィアナ。
世界がキリコを見る目と、キリコがフィアナを見る目とは、この点でパラレルな関係にあります。マーティアルはキリコをその力ゆえに「触れ得ざる者」と見なし、一方で(ロッチナの台詞にもありますが)キリコにとってフィアナもまた「触れ得ざる者」。これは単純にフィアナが死んだからというだけのことではありません。キリコにとってのフィアナは、もっとも近い存在であり、それ故にいなくなった時にはもっとも遠く感じられる“他者”なのです。観念的価値判断や機能的評価によってではなく、共に人生を生きた者同士だけが持ちうる絆の故に、かえって感じられる彼我の遠さ。
TVシリーズでは神を殺し、『赫奕』では神を信じる者たちの世界をひっくり返し、本人が意図していないところでも行く先々で結果的に破滅的な結果をもたらす(ウドやらクメンやらクエント星、『赫奕』でも工場衛星コンプラントが吹っ飛んでいる)という点で、キリコの人生の外側から彼を俯瞰するものにとっては、キリコというのは実際とんでもない存在です。「外の世界」にとって、キリコが「触れ得ざる者」とか神様(どっちかと言えば死神)同然の扱いをされるのも無理はありません。
でも、キリコ自身にとって、自分が異能者だろうが異能生存体だろうが触れ得ざる者だろうが、そんなことはフィアナの存在に比べればどうでもいいことに過ぎません。
『赫奕』のラスト。とりあえずマーティアル法王の座は維持しているらしいモンテウェルズの特使がキリコの下を訪れて、モンテウェルズとの和解とマーティアルへの協力を求めますが、キリコは歯牙にもかけず、「二度と俺に近づくな!」と一喝します。キリコが声を荒げて他人に感情をぶつけるという、ボトムズ全シリーズを通しても他ではあまり見られないこのシーンによって、キリコにとってのフィアナの存在の重みが強調されると同時に、32年前に神(ワイズマン)を殺されたことに震撼したマーティアル(モンテウェルズ)が、フィアナを死の運命に追いやることで自分たちもまたキリコに対して同じ“神殺し”の行為をしていたのだという点に、とうとう最後まで気付かなかったことも示されています。
考えてみれば『装甲騎兵ボトムズ』という作品は、銀河規模の戦乱が終息した後に残された個人レベルの傷痕という、戦争の規模に比べると一見スケールが小さいようにも非対称的にも見える描写を随所に散りばめてきました(戦災孤児のココナやサンサ戦で家族を全員失ったゾフィーなど)。ATやレッドショルダーやワイズマンにばかり目を奪われるとつい見過ごしがちですが、『ボトムズ』は「戦後」を舞台としながら随所で「戦争によって失われるもの」を丹念に拾っていたという印象があります。
『赫奕』の制作に当たって、高橋良輔監督自身は『ボトムズ』続編をあまり作りたがらなかったという話も聞きますが、もしかしたらフィアナの死には、異能生存体にまで膨れ上がったキリコの超人性を一度引き戻すために、「外から見れば超人に見えても、キリコもやはり戦争で何かを失うことのある一人の人間なのだ」ということを強調する意図があったのかもしれません。それが仮に以後のシリーズの続行を不可能にするものであったとしても(実際には『ペールゼン・ファイルズ』等の形で続きましたが)。
……で、まあそんなわけで(何がだ)、実は『ペールゼン・ファイルズ』も途中まで見ているんですが、あんまり続きを見る気にならんのですよ。3DCGなんかは別にどうでもいいのですが、私にとっての『ボトムズ』の意義は、あくまでも個人としてのキリコが紡ぎ出す意志や絆が宇宙規模の暴力世界を突き抜けていくところにあるわけで、だからこそキリコの意志や絆を繋ぎ止めるフィアナやゴウト達の存在はこの物語に必要不可欠なのです。そりゃまあ私もATは好きですが、あくまでも“あの”キリコの世界にあるからこそ相乗効果で作品世界の魅力を十割増にしてくれる小道具なのであって(でもキリコ抜きでも『メロウリンク』みたいなのはアリです)、「異能生存体」としてのキリコとATだけがポンと放り出されても、あんまり魅力は感じません。その点で『野望のルーツ』もそんなに好きな作品ではありませんし、『ペールゼン・ファイルズ』についてもバラエティに富んだ作戦の描写から「“ATの戦争”をばんばん見せちゃる!」という意気込みが込められているのは感じるんですが、「それって別に『ボトムズ』じゃなくてもいいんじゃないか?」なんてことも思ってしまうのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ついでと言ってはなんですが、ボトムズネタに便乗して、以前からちょっと気になっていたことをメモっておきます(トシがばれそうな話ですが)。
その昔「アニメック」という雑誌がありまして、他のアニメ誌同様にこの雑誌でも『ボトムズ』TVシリーズ本放送中に関連記事を掲載していたのですが、物語が終盤に近づくにつれて、「アニメック」誌の記事では作品全体のテーマをしばしば「キリコの魂の解放」と表現していました。まだややこしいことを考える頭の無かった(今も無いのか?)当時の私は、この「魂の解放」をちょっと変わった表現だと思いつつも「まあそう表現もあるのかなあ」と素直に受け取っていたのですが、今から考えると、これってニューエイジ運動とか新霊性運動などの文脈でよく使用されがちな言葉だったのではないでしょうか。
当時の「アニメック」の記事執筆者が実際にどういう意図をこの表現に込めていたのかまでは知る由もありませんが、当時「アニメック」や同誌から派生したムックは、他誌に先駆けて『機動戦士ガンダム』やその後の富野由悠季監督作品を濃密にフィーチャーしていたことを大きなセールスポイントにしていたように思います。この頃の富野作品は(全部が全部そうだというわけではありませんが)、『ガンダム』で“人の革新”としてのニュータイプが現われたり、『伝説巨人イデオン』で知的生命体がみな因果地平の彼方に魂を転生させていくといった描写がファンに強いインパクトを与えていましたが、こういった描写は、現在の人類の限界を超越して人類の魂がセカンドステージへ進化していくことに未来の希望を託すという点で、1970年代以降のニューエイジ運動・新霊性運動に極めて親和性の高いものだったように思います。富野氏自身の思惑がどこにあったのかはともかくとして、こういった作品群を「アニメック」編集者・執筆者陣が単なる仕事としてだけではなく一ファンとしても継続的にフォローし続けたことによって、富野作品から「テーマの読み方」について強い影響を受け、結果としてその後現れる作品についても、キャラクターがストーリー全体を通して何らかの意味で性格的な変化を見せる場合(とりわけ『ボトムズ』のように宇宙を舞台にしたり神と人との対峙が山場になっている作品の場合)には、そこに「人類の魂の進化」や「束縛された魂の解放」のようなテーマを読み込む傾向が現われてしまったのではないか、と私は想像します。これもある意味では80年代の「時代の空気」のようなものだったのかもしれません。
【関連(ガンダムとニューエイジの関係あたり)】(以前に『電波男』の本田透さんも「しろはた」でそんな話題の文章を書いていたように思いますが、もうWeb上では読めないのかな?)
コメント
ボトムズが好きだ
補助脳
ソウル東京さん>
キリコ対テイタニアのAT対決の流れを、テレビ本編にあったキリコ対フィアナやキリコ対イプシロンの流れと比較すると、
PSとネクスタントとの違いや共通点から、制作意図として盛り込まれたテーマが見えてくるように思います。
全人格的に改造してしまったために情緒面での不安定さがそのまま戦闘にも現われてしまうPSを超えるために、
ネクスタントは戦闘に関する脳の機能を補助脳に切り離して、情緒が戦闘に影響しないようにしていますが、
それがかえって仇となって、たった一発の拳銃弾でテイタニアの全戦闘能力が一気に破壊されてしまいます。
このあたりに、人間の能力を機能主義的に切りだして利用する考え方に対するちょっとした皮肉も込められているんじゃないだろうか、
などと私は想像しています。
ATのアクションや戦闘シーンがストーリーに有機的に結びついているという点で、『赫奕』は『ペールゼン・ファイルズ』より
ずっと興味深い作品だと私も思います。
ただ、恐らくボトムズの人気のかなり大きな部分がAT自体のメカニックの魅力に依拠していると思いますし、
最初の放送から25年を経た現在までのボトムズ人気の継続も、多くはモデラーに担われてきたところがあります。
そういう意味では、『赫奕』に比べてATアクションや戦闘の見せ方に特化した『ペールゼン』のほうに
人気が集まるのも無理はないのかもしれません。
キリコ対テイタニアのAT対決の流れを、テレビ本編にあったキリコ対フィアナやキリコ対イプシロンの流れと比較すると、
PSとネクスタントとの違いや共通点から、制作意図として盛り込まれたテーマが見えてくるように思います。
全人格的に改造してしまったために情緒面での不安定さがそのまま戦闘にも現われてしまうPSを超えるために、
ネクスタントは戦闘に関する脳の機能を補助脳に切り離して、情緒が戦闘に影響しないようにしていますが、
それがかえって仇となって、たった一発の拳銃弾でテイタニアの全戦闘能力が一気に破壊されてしまいます。
このあたりに、人間の能力を機能主義的に切りだして利用する考え方に対するちょっとした皮肉も込められているんじゃないだろうか、
などと私は想像しています。
ATのアクションや戦闘シーンがストーリーに有機的に結びついているという点で、『赫奕』は『ペールゼン・ファイルズ』より
ずっと興味深い作品だと私も思います。
ただ、恐らくボトムズの人気のかなり大きな部分がAT自体のメカニックの魅力に依拠していると思いますし、
最初の放送から25年を経た現在までのボトムズ人気の継続も、多くはモデラーに担われてきたところがあります。
そういう意味では、『赫奕』に比べてATアクションや戦闘の見せ方に特化した『ペールゼン』のほうに
人気が集まるのも無理はないのかもしれません。
『赫奕』が好きだ
また来ました。
初めて『赫奕』を見て、最後はたった一発のまぐれの銃弾で勝敗が決してしまったのは意外であり消化不充分な気持ちでした。 果たしてあれでキリコの戦闘能力がテイタニアに勝ったのか? これまで積み上げてきた異能者としての能力・実績・評価が崩れ去っていくような思いでしたね。
私にとって『赫奕』の魅力の一つは宗教勢力との戦いを主軸に置いたことでしょうか。 これまで宗教勢力との戦いに大きな焦点を当てたアニメ作品は無かったように思います。
宗教という非世俗的勢力が最新の軍事テクノロジー集団を擁して戦いを挑む様は異常であり恐るべき姿であります。 ラストの「信仰は力とともにあるべきです。」なんて台詞はきっとキリスト教世界で使い回されてきた言葉でしょうね(o^-^o)
あとATのアナログっぽい古臭いデザインは結構いいですね。
初めて『赫奕』を見て、最後はたった一発のまぐれの銃弾で勝敗が決してしまったのは意外であり消化不充分な気持ちでした。 果たしてあれでキリコの戦闘能力がテイタニアに勝ったのか? これまで積み上げてきた異能者としての能力・実績・評価が崩れ去っていくような思いでしたね。
私にとって『赫奕』の魅力の一つは宗教勢力との戦いを主軸に置いたことでしょうか。 これまで宗教勢力との戦いに大きな焦点を当てたアニメ作品は無かったように思います。
宗教という非世俗的勢力が最新の軍事テクノロジー集団を擁して戦いを挑む様は異常であり恐るべき姿であります。 ラストの「信仰は力とともにあるべきです。」なんて台詞はきっとキリスト教世界で使い回されてきた言葉でしょうね(o^-^o)
あとATのアナログっぽい古臭いデザインは結構いいですね。
ボトムズ世界の宗教観
『ボトムズ』世界での宗教は、ワイズマンの描写にせよマーティアルにせよ神を純粋な「力」として捉えているという点で、非常に面白いと思います。
モンテウェルズがマーティアル法王の座に就いて、前法王とほんの少しだけ小声で会話を交わした時に、「ここには信仰はないが権力はある」といった台詞が出てきますが、世俗的な「権力」も強大になれば非世俗的な「権威」を伴うものだという宗教観が現われているように思います。
むしろ、世界を敵に回してもキリコがフィアナただ一人を追い求める姿のほうが、モンテウェルズよりもよほど「信仰」と呼ぶにふさわしいのかもしれません。『赫奕』でのフィアナが、どこか俗世間を超越した「聖女」っぽい描かれ方をしているところに、そんな意図を感じたりします。
銃弾のまぐれ当たりは……正直に言って私もちょっと不満です。ただ、あそこは異能者の実績を下落させるというより、偶然がすべてキリコの生存に味方してしまうという「異能生存体」の描写を強調した結果ではないかと思います。
モンテウェルズがマーティアル法王の座に就いて、前法王とほんの少しだけ小声で会話を交わした時に、「ここには信仰はないが権力はある」といった台詞が出てきますが、世俗的な「権力」も強大になれば非世俗的な「権威」を伴うものだという宗教観が現われているように思います。
むしろ、世界を敵に回してもキリコがフィアナただ一人を追い求める姿のほうが、モンテウェルズよりもよほど「信仰」と呼ぶにふさわしいのかもしれません。『赫奕』でのフィアナが、どこか俗世間を超越した「聖女」っぽい描かれ方をしているところに、そんな意図を感じたりします。
銃弾のまぐれ当たりは……正直に言って私もちょっと不満です。ただ、あそこは異能者の実績を下落させるというより、偶然がすべてキリコの生存に味方してしまうという「異能生存体」の描写を強調した結果ではないかと思います。
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『赫奕たる異端』は中々、素晴らしい作品だと思います。 軍事力をも有する巨大宗教組織、PSを超える補助脳戦士の登場など見応えある内容でした。(突っ込み所もあるけれど) キリコvsティタニアのAT戦闘シーンは感動ものです。 美術も素晴らしく作画も念入りでしたね。
何故もっと人気がでなかっのか不思議です。 また「ペールゼン」の方が人気がでて劇場版まで作られたのは理解に苦しむところです。
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=panimation&st=writer_id&sw=seoul&ty=
ともあれ今後のボトムズに期待します(o^-^o)