電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

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「新しい天使」/発掘される神々 (2008年09月27日)

 ヴァルター・ベンヤミンはクレーの「新しい天使 "Angelus Novus"」に触発されながら、歴史の形象を無数の天使たちの歌声として描き出した。無数の天使たちは、神の御前に束の間その姿を存在させて讃美を歌い上げ、直に姿を消していく。無数の天使たちが代わる代わる神の御許に現れては消えていき、その歌声の継承と積層が、神という集約点において歴史のタピスリーを織り上げていくのだ。

20080927.jpg
Paul Klee "Angelus Novus" (1920)
  思うのだが、もし神ならぬ人間の身の私が何らかの奇蹟によって天使たちの歌声を細大漏らさず全て聴き取ったとしたならば、それはきっと恐ろしい不協和音、あるいはノイズそのものとなるだろう。神がここから何らかのハーモニーを聴き取ることが出来るのかどうかまでは知らない。それはきっと私の理解を完全に超越することになるだろう(私たちとは異なる認識の諸条件を持った理性的存在者の可能性としてカントが語ったことと同じように)。
 インターネットの出現と普及は、この奇蹟のあり得る方向性を既に幾分か暗示している。私に聴き取りうる無数の天使たちの歌声がますます増大するに連れて、不協和音もますます解き難いものへと変容していくかのように見える。
 不協和音に耐えられなくなった人間は、歴史の奏でる不協和音を少しでも聴きやすいものとし、それによって自らの拠って立つ環境としての世界認識に、秩序だった安らぎをもたらそうとする。例えば、天使たちの歌声を何らかの基準によって取捨選択し、選ばれた少数の天使たちの声によって歴史の歌に調和を回復しようという方向が取られることがある。また、もっぱら天使ひとりひとりの歌声のみに聴き入って、複数の天使たちによる調和の可能性を最初から断念したり、むしろ調和を見出すのは聴く側の迷妄であると捉える者もある。

 私たちの中に、歴史をただ特定の文脈において見出そうとする傾向が見られた場合、それは特定の規範意識や価値観念の表出という積極的・加算的な理由ばかりではなく、歴史を歌う無数の天使たちの歌を全て聴き取りその綜合を調和的に理解することなど出来ないという無力感ゆえに、全体の体系的(≒調和的)な理解を断念するという消極的・減算的な理由に基づいていることもあるのではないだろうか。
 いつかは神に結節した歴史の天使たちのハーモニーを聴き取ることが出来るかもしれないという希望を、例え無限遠の超越的な目標(統制理念)としてであれ抱くことが出来る人と、そのような希望を断念している人とでは、恐らく歴史に対する姿勢は違ったものとなるだろう。ひところ流行った「希望格差社会」ではないが、歴史の理解は、歴史の理解に対する希望の有無によっても左右されるのだ。
 この点で私は、万人に漏れなく共有されうるような希望などあり得ないのではないか、という思いを漠然と抱いている。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 私たちが近代的な意味における「歴史」を知るようになったのは、日本では恐らくこの百年余りのことではないかと思う。
 それ以前の長い間、「歴史」と「物語」とは不可分であった。ごく少数の専門的な歴史家であればともかく、それ以外の庶民にとって、フィクショナルな要素を排した実証的な歴史観というものは独立した知識体系としては存在しなかった。歴史と神話・民俗伝承は不可分に癒合して、その全体が一つの世界観を構成し、人々がこの世界を解釈するための背景を成していた。神々は田畑や山林と地続きに存在し、海の彼方には人の国も浄土もあった。そのような世界観の中で人々は自らを定位していたのだ。
 今日、パソコンやケータイや自動車や家電製品に取り巻かれた私たちは、自分たちがそのような旧弊を完全に脱したかのように自らを捉える。神は死に絶え、ただ人の世だけが残ったかのように考える。
 だが、果たしてそうだろうか。

 近代批判の文脈でしばしば口承伝承が見直されてきたことの要因の一つとして、語り継がれる物語に相互浸透性があったという点が挙げられるのではないかと思う。
 外部媒体に固定されることなく、常に人々の意識を経由して継承される物語は、その時々の人々の思いや人々の意識を構成している時代精神を、物語の中に自然に反映させていくことになる。真正なテクストという固定的な基準点は無く、物語は人々に影響され、人々もまた物語に影響されて、曖昧な相互参照と相互影響の下に常に移り変わっていく。常に変化していく物語によって世界観を育んだ人々は、都度都度の人々の意識によってアップデートされた世界認識の下に自らの存在を定位することとなるだろう。柔軟とも機会主義的とも言えるそのような世界認識のあり方が、とりもなおさず数世代前までの私たちの先祖の有していた世界観なのだ。
 このような口承伝承の世界を現代に適用することは、通常は「噂」の研究などの限られた分野でしか省みられない方法論であったが、新たな言説空間としてのインターネットの普及は、このような前近代的コミュニケーションのあり方をアクチュアルな問題として再び復活させたように思える。物語の素材こそ外部のテクストに求められるが、その素材を組み立てて物語のタピスリーに織り上げる方法が、学問的にオーソライズされた方法論ではなく、その都度都度に抱かれている人々の欲望や思い、そして人々の意識に内在化した時代精神による方向付けに拠っている場合、織り上げられた物語は口承伝承の物語と同様に、その都度都度の人々の思いと相互に浸透しあいながら構成されていくことになる。
 厳密に言えば、学問としてある程度の定式化を受けた世界認識ですら、やはりその時々の人々の意識と無関係でいられるわけではない。歴史学などの人文諸学はもちろん、自然科学においてすらそれは言える。人々の時局的・機会的な思いや価値観のあり方とは無関係に“客観的な”世界像を打ち立てることは学問の絶えざる目標であるが、現実には学問が人間の営為であるが故に、常に人間の影響を受けざるを得ない。
 ましてや、学問としてオーソライズされてるかどうかという外的制約を受けない言説が、物語のタピスリーを織り上げる方法論をめいめいの口承的・民俗伝承的な世界認識に求めていたとしても、いったい何の不思議があろう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 現代の私たちは、出版や放送の媒体を通して限られた数の“天使”の歌を聴くだけでなく、不特定多数の無数の“天使”の歌をほぼ直接聴き、その中で従前には予想もしなかったタピスリーが織り上げられるのを見ることもある。しばしばそれは、耐え難い不協和音やノイズとして認識されるだろう。
 大衆論が衆愚論として展開される時には、こうした不協和音の耐え難さがしばしば、多数者による画一性や感性的・動物的反応の現われとして指摘されることがある。それはそれで決して真っ向から否定するつもりもないのだが、一方ではこう思うこともある。
 大衆の“天使たち”によるノイズは最近によって初めて出現したのではなく、実はメディアを介して広く知られる機会のなかった人々の土着の生活の中で形を変えながら継承され続けてきたものなのであって、最近になって次第にそれが可視化したために、近代のオーソライズされた世界認識体系から見れば、あたかも新しい現象(あるいは古き呪術の予期せぬ復活)であるかのように見えてしまったのではないだろうか。もしかしたらそれは再生でも復活でも新生でもなく、単に生活実践の一部を形作る水面下の民間伝承の中で細々と生きながらえてきた神々が、新たな情報環境の下で発掘されただけなのかもしれない、と私は思う。
 私たちは常に、時代と共に形を変えながら生き続ける古き神々の残像を生活実践の中にまとわせ続けているのであって(今でも結婚式場の予約は大安吉日に集中するというではないか)、時に何らかの契機で古き神々がクローズアップされることがあっても、それは日常の中で私たちがそれらの神々と完全に縁を切っていることの証左にはならないのではないか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ベンヤミンの未完の大作『パサージュ論』は、ほぼ全編に渡って19世紀の様々な風俗に関する断片的記述の引用に終始している。どうやらこれは、編者(ベンヤミン)の解釈によるパラフレーズをなるべく排して、“天使たち”自身の無数の歌声を合成したノイズの集塊から、19世紀パリの人々が初期資本主義に対して投影した夢の全体像を浮かび上がらせようという試みであったらしい。引用された断章の中には初期資本主義の一般的なイメージとはそぐわないものも含まれるが、恐らくベンヤミンはそのような“はぐれた歌声”を編集によって全体の中に解消することなく、むしろ不協和音のまま私たちの歴史認識の中にそうした声を叩き込むことをよしとしたのだろう。『パサージュ論』は歴史を概観するための著作ではなく、(擬似的にではあれ)歴史を“体験”するため著作として構想されているのだ。この点でベンヤミンは、思想としては西欧近代に対する内在的・根源的批判者でありつつ、方法論においてはむしろ19世紀のパリ万国博やパノラマ館の“まなざし”を継承した、西欧近代の典型的な体現者の一人であると言えるかもしれない(万博ほど世界をきれいにカテゴリー化したわけではないが)。

 しかしベンヤミンの試みは、ある種の限界をも指し示しているように思える。
 無数の天使たちの歌によって構築されていく歴史を、例え一部分だけであれ圧縮されざる全体像として見るためには、極めて大部の著作としてまとめる他はない(岩波現代文庫版の『パサージュ論』は全5分冊になっている)。こういった証言の集成は時間をかけて読み解いていくだけの読解力や集中力が必要であり、場合によっては解釈のための背景的文脈を別のところから用意する必要も生じる。
 通例であればアカデミズムとしての歴史学がその基盤を用意し、それ以外の人々(大衆)はこの学問的基盤を通して生成された二次情報としての概要を歴史そのものの代わりに受け取ることになるのだが、このような分業が生み出す妥当性を信じない者、自律的な方法論を備えたアカデミズムの領域を一種のブラックボックスとして捉える者は、この概要では飽き足らずに、歴史を歌う天使たちの生の声に拘るかもしれない。
 ただし、日々の糧を稼ぐのに忙しい「大衆」には『パサージュ論』を全部読み解く時間などあるわけがないから、ある程度は事前に取捨選択したりダイジェスト化したものを読むことになる。この選択基準は、選択されたりダイジェスト化された結果が自分にとって読みやすいかどうか、自分の好奇心の方向性を適度に満足させてくれるかどうかが主な鍵となるだろう。口承的・民間伝承的な物語としての歴史が、物語を受け継ぐ人々の意識によってフィルタリングされたり変形を被るのと同じように、特段の方法論による外的制約を受けない歴史の受容は、受容する者の意識次第によって独自の文脈的タピスリーを織り上げることとなる。しかも、当人は自分の手に入れたものが歴史の生の証言そのものであると信じるために(確かに材料は天使たちの生の歌かもしれない)、取捨選択や材料の構成を通じてその人の意識に構築された歴史の解釈体系もまた、解釈ではなく「生の歴史そのもの」であると信じ込みやすい。何しろ学者連中の余計な解釈を挟まずに歴史の生の声を聞いたのだから、それによって得られた認識が歴史の真実以外の何を指し示すというのか、といったところであろう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 パウル・クレーの「新しい天使」は、フレスコ画などに見られる類型的な美しさを備えた天使像とは似ても似つかない。だがベンヤミンはこの絵を購入してから終生手放すこと無く、常に自らの思索の伴侶としてきたそうだ。
 いささかいびつにも見えるこの天使像を見ながら、私たちはこう自問すべきなのかもしれない。

 新しい情報環境に伴って、民間信仰の中に埋もれていた土着の神々の残像や、不可視だった天使たちが発掘された。こういった天使たちの声は一見異常なノイズにしか聞こえないかもしれないが、人間は常にこうしたいびつな天使たちの不協和音によって、この世界の歴史を形作ってきたのだ。
 一方、旧弊的なアカデミズムの頚木を脱して、もっぱら事実そのもの=天使たちの生の声にのみ耳を傾ける“新世界”に生きているのだと信じている人は、実際には日々の生活実践を通じて口承的・民間伝承的に受け継がれてきた古層の神々の残照、より古い天使たちの歌声によって認識を条件づけられており、ただ自分ではそのことに気付かずにいるに過ぎない可能性がある。

 もし、歴史を寿ぐ天使たちの歌声が、人間の耳にも快く響く美しいハーモニーとして聴こえてきたとしたら、私たちは歴史の調和を賞賛するよりも先に、不協和音やノイズを発する天使たちの歌声を聴き落としている可能性をまず疑うべきなのかもしれない。

コメント

知恵と思索の神

日本神話の「知恵と思索の神」思兼命。
ヘルメスやトートに匹敵するはずだが何故か日本はアニミズムと言って自然神ばかり目を向け、精神的な神に注目していなかった。その神を発掘して本にし、UPしました。ご参考ください。

http://www.geocities.jp/k_kibino/

ご紹介ありがとうございます。

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