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電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

電子回路の「望み」 (2008年09月20日)

 これまで何度となく観てきたタルコフスキー監督の映画『ストーカー』をまた観ていたら、ちょっと気になったことがあるのでメモ。

 ラストシーンで、ストーカーの娘がサイコキネシス(念動力)に目覚めたような描写がある。恐らく一般的な解釈としては、ここに宗教的・超越的救済のモチーフを読み込むのが通例ではないかと思う。「ゾーン」に入り込んだ三人(「作家」と「教授」と「ストーカー」)を人間が幸福を求める時の三つの方向性の象徴として捉えた上で、娘の“覚醒”はストーカーが背負っている宗教的救済(神の奇蹟)のモチーフを背負っていると解釈するのが、テーマを整合的に理解する上ではもっともすっきりしているし、またタルコフスキー自身のロシア正教的な宗教意識にも適っている。
 しかし、いかにタルコフスキーが「ゾーン」の三人の中でストーカーの人物造形に最も強く自分自身を投影しているとはいえ、その他の二人も決して図式的に否定的対象として扱われているわけではない。例えば、作中で作家が語っていることの中には、映画監督としてのタルコフスキー自身の心情を作家に仮託したとしか思えない内容が少なからず含まれている。タルコフスキーのテーマから最も遠いように見える教授のモチーフにも、もしかしたらストーカーや作家とはまた違った角度から監督自身の心情を反映している部分があるのではないだろうか。

「ゾーン」の奥深くにある“部屋”は、入った者が抱いている望みを叶えてくれると言われているが、叶えられる望みは意識的に思い浮かべたものではない。その人が意識しているといないとに関わらず、最も強く切実に心の中に宿っている望みが一つだけ選ばれる。ストーカーの師匠であったジカブラス(ヤマアラシ)は、亡くした弟が帰ってくることを願って“部屋”に入ったが、叶えられた願いは弟の復活ではなく大金であった。「自らが最も強く切実に望んでいること」の正体、つまり自らの内面の本性を見せつけられたジカブラスは、自分自身の本性に耐えられずに自殺してしまう。

 さて、作中で「ゾーン」を彷徨した三人は、結果的に“部屋”に入ることはなかった(ように見える)。では最後にストーカーの娘に現れた異変は、いったい何だったのだろうか? あれは「ゾーン」がもたらすと言われている奇蹟とは何の関係もないのだろうか?
 よく見ると、作中で外部から“部屋”に入ったことがはっきりと描写されている存在が、一つだけある。もちろん三人の人間ではない。
 唯一“部屋”に入ったのは、教授が持ち運んできた爆弾である。正確に言えば、爆弾のパーツとなっていた電子回路らしきものだ。
 教授は“部屋”を破壊するつもりで組み立てた爆弾を再び解体してから、解体後のパーツを“部屋”の中に放り投げている。カメラは水に浸された“部屋”の床を映し出し、恐らく時限装置か何かの爆弾制御ユニットが入っているのではないかと思われる、小さなキーパネル付きのパーツをアップで捉える。やがて魚が泳いできてパーツの周囲をたゆたい、その頭上の水面を黒い油らしきものが次第に覆い隠していく。同時に、ラヴェルのボレロがBGMとして流れ始める。それまでとは異なった視覚的変化(魚の到来と油の流入)および聴覚的変化(ボレロ)によって、ここで“部屋”そのものに何らかの変化が生じていることが暗示される。“部屋”に入ってきた者=電子回路に対して、この“部屋”の中で明らかに何らかの作用が及び始めている……。

 これまで何回も観たことのある作品だが、ここで改めて、今まで思いつかなかった解釈の可能性を考えた。
「ゾーン」の“部屋”は、この時に電子回路の「望み」を、あるいは20キロトンの爆弾の「望み」を読み取ったのではないか?
 そして、「ゾーン」がどういう“読み方”をしたのかはともかくとして、その「望み」が叶えられた結果が、最後にストーカーの娘に現れた異変だったのではないか?
 ストーカーは作中で明らかに司牧者・聖職者の役割を担っているが、彼の生活は決して楽にも幸福にも見えない。彼の家族は貧困や周囲からの蔑視といった雰囲気に支配されている。それに加えて娘は不自由な脚というハンディキャップも負っている。娘の念動力は机の上のコップを少しずつ動かすことが出来るくらいで、現在の生活を何らかの形で向上させるほど強力なものにはとても見えない。
 もし、これが何らかの「望み」に対して「ゾーン」がもたらした奇蹟の結果なのだとしたら、いったいこの判断にはどんな意味があるのだろうか?

 ジカブラスの例に見られるように、「ゾーン」は人間の抱く望みを、深層心理において最も強く抱かれている想念として捉える。
 タルコフスキー監督が『ストーカー』よりも前に制作した映画『惑星ソラリス』でも、これと同じ“読心”のモチーフが出現している。ソラリスの海は訪れた人間の心を読み、その中で最も強く印象付けられている人間の姿を具現化するが、最も強い印象とはしばしば過去の経験における最も強い後悔やトラウマの記憶に結びついている。そのためにソラリス・ステーションを訪れた宇宙飛行士は皆、自分にとって最も見せつけられたくない過去を象徴する人物と、強制的に対面させられてしまうのだ。それは過去の記憶との対面であり、過去の記憶の積み重ねによって次第に形作られてきた自分自身との対面だ。
 ここからの連想で、ひとつ思いつく可能性がある。実は「ゾーン」もまた、別に「望み」を叶えているわけではなく、“部屋”に入ってきた者が宿している過去の記憶から、単に最も強く印象付けられている要素(それはソラリスの海と違って「人」とは限らない)を具現化しているだけではないのだろうか。
 ジカブラスの場合には、具現化されたものは大金だった。その結果を見ることによって彼は、結果としての大金が自分自身の「過去の記憶のうち最も強く印象付けられたもの」に起因していることを知ったのだ。
 では、(あまり役に立ちそうにない)念動力は、いったい何をもとにして構成されたのだろうか? 結果として(あまり役に立ちそうにない)念動力を生成するような原因となり得る「過去の記憶のうち最も強く印象付けられたもの」とは、いったい何なのだろうか?
 いや、もう一歩問いを踏み込んでみたほうがいいだろう。
 もし、娘の念動力が電子回路(または爆弾)の「望み」を「ゾーン」が読んだ結果なのだとしたら、いったい「ゾーン」は電子回路(または爆弾)からどんな「過去の記憶」を、そしてどんな「過去の記憶のうち最も強く印象付けられたもの」を読み込んだのだろうか?

 電子回路は、人間が作り出した他のあらゆる機械的・技術的所産と同じように、ある条件が満たされたらそれに応じて必ずある特定の動作をするように構築された仕組みの一種である。この仕組みは、Aというインプットに対しては必ずBというアウトプットが出力されるように考案・設計され構築された機能体であり、一種の条件構文や関数のようなものと言っていいだろう。
 従って、原則としてこのような機能体は、何もインプットがないところから自律的に何らかのアウトプットを生成するような仕組みにはなっていない。自動機械ですら、人間があらかじめ設計したりプログラムしたりした通りにしか動かず、またそれ以外の動きをすることは期待されていない。むしろ、人間があらかじめ設定していないような動きを自動機械が見せたならば、それは故障として扱われるか、あるいは自我を持った機械の反乱としてSFの題材になる。
 もし「ゾーン」が、このような機能体から何らかの「過去の記憶」や、その中で最も強く印象付けられたものを読み取るとするならば、読み取られるものは人間があらかじめインプットしていた情報か、あるいは機能体自体の機能構造以外にはない。つまり、「ゾーン」は条件構文や関数の集積を、相手の記憶として読み取ることになる。

 娘の念動力の無力さは、ここに起因しているのではないだろうか。
「ゾーン」が起こす奇蹟=意識の具現化は、もし具現化されるものが関数的・条件構文的なものである場合には、恐らくインプットに応じて可変的なアウトプットを吐き出す種類の何物かを、望みが付与される対象に与えることとなるだろう。娘の念動力の無力さは、娘の現状の無力さをダイレクトに反映したものでしかないということになる。
 その一方で、念動力というのは明らかに現在の通常の科学技術的手段では得られないものだ(『ストーカー』の作中世界でも多分そうだろう)。では、科学技術の所産である爆弾の電子回路から、なぜそんなものが読み込まれたのか。これもやはり、人工的機能体の関数的・条件構文的な性格からある程度類推できる。「ゾーン」は娘に対して、まだ持っていなかった能力を新たに付与したのではなく、娘が既に持っていたが微弱すぎて表には全く現われてこない能力を、オーディオ機器のアンプのように機械的に拡大しただけなのではないだろうか。
 燃料のないエンジンや電圧の低いところで作動する電気機器のように、機能的には人知を超える能力を可能的に発揮し得るが実効力(出力)の点ではまるで無力な娘の念動力は、条件構文や関数の持つ記憶を経由することによって、「ゾーン」から与えられた(というより増幅・機能拡張された)のだと見ることが出来る。ここには、合理性を越えた人間の潜在的可能性に対する希望と絶望の両方が現われているように思える。

 さらには、「ゾーン」そのものもまた電子回路と同じように、何の“自由意思”も持たない条件構文や関数のようなものでしかなかったと見ることも可能だ。それは、合理的方法論によって進展してきた近代文明が人間の望みとどのような関係にあり、人間の潜在的可能性をどのように汲み上げてきたのかを象徴することになる。人間のイニシアティブ(インプット)によらなければ起動することすらないが、稼働している時には関数的・条件構文的な仕組みに従って出力(アウトプット)をどこまでも上げていけるということだ。ただ、どのようなアウトプットが得られるかは人間のイニシアティブが何を意図するかに左右され、しかもその意図は必ずしも意識の表面に上ってきたものばかりとは言えない。ジカブラスが与えられたアウトプット(大金)は、「ゾーン」という関数/条件構文によって読み取られ拡大された彼のインプットが、意識の表面で望んでいたこと(弟の復活)以外のところにあったことを告げている。

 この方向性では、最後に一つの謎が残る。電子回路の望みの反映が、なぜストーカーの娘の下に訪れたのかということだ。
 あり得る答えの一つは、電子回路の望みとして「ゾーン」が読み取った関数的な機能増幅の可能性を、「ゾーン」は娘の中にのみ見出したのではないか、ということだ。関数的・条件構文的な増幅装置として「ゾーン」を捉える限り、「ゾーン」は決して無からの創造をもたらす神にはなれない。ただ、不幸な娘の下に僅かながら見出される可能性を「ゾーン」が増幅することで、一見すると創造に似た行為を行なう(念動力を目に見えるものとする)ことは出来る。つまり、奇蹟としての創造行為は娘の中に最初から宿っていたのであって、「ゾーン」ですらその奇蹟の領域には踏み込めなかったのだ。全能に見える「ゾーン」と無力な人間との関係が、ここで反転することになる。しかしこれは人間が偉いということではない。人間だって別に意図して娘に念動力の可能性を付与したわけではなく、神の恩寵の如くにいつの間にか授けられていたに過ぎないからだ。
 従ってこの解釈の帰結は、人間の意識の中には「ゾーン」にも人間自身にも手の届かない領域がある、ということになる。「電子回路の望みを読んだ可能性」を手掛かりにしてなるべく合理的(あるいは機械論的)な解釈を目指した割にはかなり神秘主義的な帰結になってしまったが、どうしてもこの方向に行きつかざるを得ないというところも、またタルコフスキー作品らしい話ではないだろうか。
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最近はReCTOL(rectol4)という名前でYahoo!ブログにも出没していたりします。

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