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実体ユートピアと関数ユートピア (2008年08月29日)
上手く考えがまとまらないままに書き殴りメモ。ちなみにタイトルはカッシーラーのパクリ。
実体としてのユートピアは、目的となる最終完成形のイメージを持つ。具体的な形象として提示されたこの最終完成形を目的として共有することが、万人には要請される。質的ユートピアと言い換えてもいい。
関数としてのユートピアは、目的となる最終完成形のイメージを具体的な形では持たないが、万人に対してはある種の手続き・方法を共有することが要請される。この要請を遵守する限りにおいて万人は幸福を無限に増大させていくことができるというのが、この種のユートピアの目的であり、これを量的ユートピアと言い換えてもいいだろう。
実体ユートピアに対して関数ユートピアがより「開かれている」ように見えるのは、全体としては最終完成形の形象が固定されず量的な限界を持たないが故に、原則として万人が常にそのユートピアに入りうるしまた十分な利益を享受しうると見なされるからだ。類的存在としての全体の最大幸福が他のどのユートピアにもまして極大化されうるかどうかという観点が、関数ユートピアを評価する際の最大の(恐らくは唯一の)基準となる。
従って、全体の最大幸福とはいったい何であるか、あるいは幸福一般とは何であるかの定義が異なった者同士が集まれば、関数ユートピア同士の間ですらやはり「神々の闘争」が生じるだろうし、その中では相対する論者は、相手が自らの客観的な量的指標を承認せずに別種の恣意的な「幸福」目標を提示しているという理由で、相手を実体ユートピアとして批判するだろう。
どんな関数ユートピアも、それが純粋な概念モデルの領域から現実に生きられる人間の生活実践の領域へと接続される瞬間に、質的な価値判断を伴わざるを得なくなる。量的な指標は、それ自体としては何も語らないが、現実において量を増やすべきか減らすべきかという語りを伴えば、それは幸福の何たるかを示す価値的な指標そのものになるからだ。
仮に「べき」が明言されなくとも、量が増えたり減ったりすることの結果が ── 例えば「量が減ったらあなたの生命は損なわれる」などの形で ── 生活実践に接続されているならば、それは相手の存在そのものについての条件分岐 ── 「量が増えればあなたは存在するだろう、量が減ればあなたは存在しないだろう」 ── となる。これは「文法形式上は命令文となっていないので、これは“べき”の明言ではない」と解釈すべきものだろうか?
概念モデルの上に留まる限り、関数ユートピアはその手続きや計算規則が許す範囲内においていかなる値も取り得るし、どのような値もそれ自体としては何の価値判断も含まない。
しかし、この関数ユートピアが生活実践に接続されると、概念モデルの上とは異なった制約条件を受けたり、純粋理論の上では付与されない種類の価値判断を含んだりすることがある。それ以前にそもそもの最初から、どの関数ユートピアを生活実践のどこにどのような形で接続するかを選択・判断すること自体が、既に価値判断を含んでいる。
それにも関わらず、関数ユートピアが概念モデルとして価値中立的であるが故に、そのモデルの現実への適用状態もまた価値中立的であるという思い込みが持たれることがある。
もし関数ユートピアを価値中立的な存在として留めておきたいのであれば、一つだけ方法がある。そのユートピアを机上の概念から一歩たりとも外に出さないことだ。現実の実践にもたらされることなく、永遠にノートや活字や表計算ソフトやブログの中でだけ語られる存在であり続けること。決して現実の生活実践を直接的に測定する指標として用いないこと。現実世界とは永遠に縁のない仮想世界であり続けること。それだけが、関数ユートピアが価値中立的であり続けるための、たった一つの道なのだ。
実体としてのユートピアは、目的となる最終完成形のイメージを持つ。具体的な形象として提示されたこの最終完成形を目的として共有することが、万人には要請される。質的ユートピアと言い換えてもいい。
関数としてのユートピアは、目的となる最終完成形のイメージを具体的な形では持たないが、万人に対してはある種の手続き・方法を共有することが要請される。この要請を遵守する限りにおいて万人は幸福を無限に増大させていくことができるというのが、この種のユートピアの目的であり、これを量的ユートピアと言い換えてもいいだろう。
実体ユートピアに対して関数ユートピアがより「開かれている」ように見えるのは、全体としては最終完成形の形象が固定されず量的な限界を持たないが故に、原則として万人が常にそのユートピアに入りうるしまた十分な利益を享受しうると見なされるからだ。類的存在としての全体の最大幸福が他のどのユートピアにもまして極大化されうるかどうかという観点が、関数ユートピアを評価する際の最大の(恐らくは唯一の)基準となる。
従って、全体の最大幸福とはいったい何であるか、あるいは幸福一般とは何であるかの定義が異なった者同士が集まれば、関数ユートピア同士の間ですらやはり「神々の闘争」が生じるだろうし、その中では相対する論者は、相手が自らの客観的な量的指標を承認せずに別種の恣意的な「幸福」目標を提示しているという理由で、相手を実体ユートピアとして批判するだろう。
どんな関数ユートピアも、それが純粋な概念モデルの領域から現実に生きられる人間の生活実践の領域へと接続される瞬間に、質的な価値判断を伴わざるを得なくなる。量的な指標は、それ自体としては何も語らないが、現実において量を増やすべきか減らすべきかという語りを伴えば、それは幸福の何たるかを示す価値的な指標そのものになるからだ。
仮に「べき」が明言されなくとも、量が増えたり減ったりすることの結果が ── 例えば「量が減ったらあなたの生命は損なわれる」などの形で ── 生活実践に接続されているならば、それは相手の存在そのものについての条件分岐 ── 「量が増えればあなたは存在するだろう、量が減ればあなたは存在しないだろう」 ── となる。これは「文法形式上は命令文となっていないので、これは“べき”の明言ではない」と解釈すべきものだろうか?
概念モデルの上に留まる限り、関数ユートピアはその手続きや計算規則が許す範囲内においていかなる値も取り得るし、どのような値もそれ自体としては何の価値判断も含まない。
しかし、この関数ユートピアが生活実践に接続されると、概念モデルの上とは異なった制約条件を受けたり、純粋理論の上では付与されない種類の価値判断を含んだりすることがある。それ以前にそもそもの最初から、どの関数ユートピアを生活実践のどこにどのような形で接続するかを選択・判断すること自体が、既に価値判断を含んでいる。
それにも関わらず、関数ユートピアが概念モデルとして価値中立的であるが故に、そのモデルの現実への適用状態もまた価値中立的であるという思い込みが持たれることがある。
もし関数ユートピアを価値中立的な存在として留めておきたいのであれば、一つだけ方法がある。そのユートピアを机上の概念から一歩たりとも外に出さないことだ。現実の実践にもたらされることなく、永遠にノートや活字や表計算ソフトやブログの中でだけ語られる存在であり続けること。決して現実の生活実践を直接的に測定する指標として用いないこと。現実世界とは永遠に縁のない仮想世界であり続けること。それだけが、関数ユートピアが価値中立的であり続けるための、たった一つの道なのだ。
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