terra incognita

人生リハビリ日記。

……最も均質で「つつしみ」の気持ちを欠いて計画された現代の都市開発の空間ですら名称がつけられ、明瞭な中心と周辺地区とに組織立てられている。そして、まったくの郊外に住む人々ですら、そこに根をおろし、住んでいる場所へのかかわりを育んでいる(…)。そのような経験は、ハイデガーの描くシュヴァルツヴァルトの農民が自らの住まいについて経験するものとは明らかに同じではないし(…)、その家屋のつくりに現れたものと同じ濃密さと奥深さを持つこともできない。なぜなら、郊外の家々はカタログの中のデザインを用いた請負い業者たちの仕事によって建てられているのだから。しかし同時に、私たちはそれをより劣った経験であると安易に判断することはできない。なぜならそれは、人間の意志や希望や畏れを含むからである。幸福や絶望といった経験に関しては、私たちはそれを測る尺度を持ち合わせていないのだ(…)。

(エドワード・レルフ『場所の現象学』)

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アーサー・ケストラー『ヨハネス・ケプラー』 (2008年08月24日)

 先日紹介したマイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』では、知識の発展が決して明示的に記述されうるテクスト的知識だけによるものだけでなく、むしろ知識を(テクストから見れば)背景に存在し機能している暗黙知の領域にも依拠していることが強調されていました。この「暗黙知」は、決して断片的・要素的なノウハウに限った話ではなく(そもそも知識を断片化・要素化できること自体が知識の明示的テクスト化を前提としています)、例えば知識を構成したり発見したりする方法にも適用される概念のようで、テクスト化された知識はあくまでも不定形なゲシュタルト(形態)を描きながら成長するプロセス全体としての知識の一断面を切り取っているに過ぎないという見方も、ここから可能となります。
 このようなポランニーの見方は、システム論の基本的な見方である「システム全体の動作はその一部分の要素の単純和に還元できない」とも共通しています。科学哲学者でありジャーナリストでもあったアーサー・ケストラーは、これと同様のことを「ホロン」という概念にまとめています。上位のシステム構造は下位のシステムの構造に対して、その下位構造にある諸々の単独機能の総和には還元されない「全体」として存在し、逆に上位構造のさらに上に別の上位構造があるならば、さきほどまでの「全体」が今度は「部分」となり、新たな上・上位の「全体」は上位の「さっきまでの全体=今の部分」によっては説明できない「今の全体」として機能している……という、階層ごとに機能が飛躍しているような機能構造の中に置かれたものとしての機能体(それ故に単独で完全に記述されることはなく、常に上位と下位との機能的つながりを背景的に押さえておかなければならない)のことを、ケストラーは「要素でありかつ全体でもあるもの」という意味合いを込めて「全体子=ホロン」(*01)と呼んでいるのです。
 ケストラーは『機械の中の幽霊 "Ghost in the machine"』という著書の中でも、機械の全体動作が個々の部品の動作に還元されないことになぞらえて、機械論的な生命観を批判しているそうです。私はこの本を持っていないので別の記事からの孫引きになりますが、
生物体を構成している階層性を、器官、組織、細胞、細胞器官、巨大分子等々と下の方へたどっていくと、どこまでいっても底というものはなく、生命に対する古い機械論的なアプローチから期待されるような最終的構成要素はついにみつからない。階層性は、上の方向へ向かってと同じように、下の方へ向かってもその末端は開いたままなのである。

『機械の中の幽霊』第4章 不可分と可分/無機的システム

機械の中の幽霊 - Group // Eureka seveN

……という観点を提唱しています。
 漫画家の士郎正宗氏はこの概念を自作品に取り入れて、『攻殻機動隊』の副題として「Ghost in the shell」の名を付けていますが、この「機械の中の幽霊」という言葉は、元々の意味ではギルバート・ライルがデカルト風の心身二元論を批判して、人間は「肉体という機械の中に精神という幽霊が実体として入っている」などという単純な入れ子構造にはなっていないという指摘を行った際に使われた表現なのだそうです(*02)。そういう意味では、「幽霊(ゴースト)」とは要素的実体を指し示すものとして、ホロン論の立場から言えばむしろ否定的に取り扱われるべき概念のようなのですが、『攻殻機動隊』の世界では「幽霊(ゴースト)」の意味が(まったく別の意味にはなっていないものの)少し変形していて、テクスト的にはっきりと記述はできないけれど主観的認識においては「それ以外にありえないもの」として観察されうるものを、むしろ機械論的要素還元論から擁護するための言葉として使用されているように見えます。『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子が、実証的に証示できないけれど予感めいたものとして感じられる疑念を表現して「そう囁くのよ、私のゴーストが」と言っているのも、その表れではないでしょうか。
 さらに、TVシリーズとして制作された『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』では、個別の人間の「魂(=ゴースト)」だけが「全体」として表わされているのではなく、この魂がネットを介したオンライン結合によって有機的に機能を統合させた時に、個別の人間の「魂(=ゴースト)」の機能には還元されない、より上位の階層の「ゴースト」が出現する可能性も予示されます(押井守監督の劇場版『攻殻』ではこちらの側面はそれほどはっきりとは現われていないようです)。


 ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、今週私が読んでいたアーサー・ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』(小尾信彌・木村博訳、ちくま学芸文庫、2008年)は、歴史上の人物評伝を機械論的な発展史観ではない方法によって記述しようとした「ホロン的伝記」と呼べるかもしれません。

 近代自然科学の発展を語る上でもっとも大きなトピックである天文学・力学・物理学において、ヨハネス・ケプラーは紛れもなく最も偉大な科学者として名を挙げられる人物の一人です。コペルニクスからケプラーとガリレオを経てニュートンへと続く系譜によって語られる近代物理学の歴史は、科学が代を追うにつれて段階的に着実に発展してきたことを証明しているように見えます。この系譜の中でケプラーは、コペルニクスが礎石を置いた地動説を批判的に検証して、太陽系の惑星の公転軌道が楕円であり、かつその軌道と惑星の速度は数学的に定式化されうることを証明し、後にニュートンがガリレオの力学法則と合わせて万有引力の法則を打ち立てるための、重大な階梯を作り上げた人物として認識されます。
 ところが当のケプラーは、自分自身の業績の価値がそのような点にあるとはちっとも思っていませんでした。
……たとえばケプラーは『神秘』への解説(引用者注:自らの処女論文『宇宙の神秘』に対して後年付記した自己注釈)で、後の仕事で得られたいくつかの小発見を誇らしげに述べているが、しかし彼の不滅の法則、今日生徒たちがみなケプラーの名前と結びつけて覚えるあの3法則のうち、第1法則と第2法則については、一言もふれていない。解説は主として惑星の軌道を扱っているが、しかしそれが楕円であるという事実(ケプラーの「第1法則」)はどこにも述べられていない。(略)ケプラーは、太陽系が神聖な5つの立体のまわりに、完全な結晶のように組み立てられていることを証明しようとして出発したが、残念なことにそこでは、偏りをもったつまらない曲線が支配的であることを発見した。そのために彼は無意識のうちに「楕円」という言葉をタブーとし、彼の最大の業績に対する自らの盲目さと、固定観念の影への執着をもち続けたのである。彼は現実を無視するにはあまりに正気であり、その価値を理解するにはあまりに狂気であった。
 現代のある学者は、科学革命について次のように批評した。「この壮大な変動全体の、最も奇妙で苛立たしさを覚える特徴の1つは、当時の偉大な代表的人物が誰一人、十分な明晰さで自分の行なっていることの、あるいはその方法の何であるかを、わかっていたように思えないことである」と。ケプラーもやはり「彼のアメリカ」を、「インド」だと信じつつ発見したのであった。

(『ヨハネス・ケプラー』p.90-91)

 この部分に付されている原著者注にはこうあります。
奇妙なことに、ケプラーについて書いた権威たちは誰も、「楕円」という言葉に対する彼のこの頑固な忌避に注意を向けていないようである。おそらく、ケプラー自身が自分の発見した楕円軌道を、明らかに不合理なものとみなしてひるんだと同じように、科学史家たちは、彼らの英雄の不合理にひるんだのであろう。

(『ヨハネス・ケプラー』p.94)

 ケプラーが真に望んでいたことは、正立体(正多面体)の秩序正しい幾何学的な組み合わせによって宇宙の秩序を説明し尽くすという理論の確立でした。彼は宇宙がピタゴラスの論じたような合理的・調和的秩序を持っていることを信じ、その秩序が数学だけでなく幾何学によっても完全に表わされるべきであるという方向性に従って自らの探究を進めていったことです。この方向性は、基本的に終世変わることがありませんでした。
 神の御心と人の心とをつなぐ真理は、かつてピタゴラス派にとってもそうであったように、ケプラーにとっても、「神の幾何学」という永遠の、そして究極の真理として表われている。
 なぜ言葉をむだに費す必要があろう? 天地創造の以前から存在していた幾何学は、神の御心と共に永遠であり、神そのものなのである(いったい、神そのものでないような何が、神のうちに存在するだろうか?)。幾何学は、神に天地創造のためのモデルを提供し、また神自らの似姿と共に人間のうちに植えつけられたのである──。つまり幾何学は、単に目をとおして人間の心に入りこんだというだけではない。

 しかし、神が幾何学的モデルに従って世界を創造し、人間が幾何学を理解する能力を授けられているのであれば、純粋に先験的な推論によって「いわば神の心を読みとることによって、宇宙の青写真の全体を演繹することは、完全に遂行可能であるにちがいない」。若きケプラーはそう考えた。天文学者というのは、「自然という書物の解釈を命じられた司祭」なのであり、司祭ならたしかに解答を知る権利がある。

(『ヨハネス・ケプラー』p.85-86)

 ここからはケプラーの信念の現われだけでなく、ヨーロッパの学問において合理的な演繹による推論がしばしば“世界の絶対的な真理”と同一視されてきたことの、哲学的および心理的背景を読み取ることができます。学問において近代的な実証論による徹底的な洗礼を受けてきた後の、現代の人間にとっての“真理”観とは異なった見方が、ここにはっきりと現われています。中世の思索と思想信条を濃く受け継いだケプラーにおいて、先験的な演繹によって証明された知識体系が先験的な存在としての神の真理を反映しているのは、むしろ当たり前すぎることでした。ケプラーは最初から近代人だったのではなく、むしろ最後まで中世人でありながら、その思索の変容の中に、図らずも近代に通じる変革を宿してしまった(しかもそれを「明らかに不合理なものとみなしてひるんだ」)のです。その上彼自身は、死ぬまで自らの仕事の“近代的な”意義に気付くことはありませんでした。何故なら、ケプラーが近代的な自然科学の方法論を(過渡期的な形でではあれ)実践していたということは、彼の足跡を伝記的に追っていく後世の私たちが、近代的な方法論が確立された後のパースペクティブ(言い換えれば“後智慧”)に沿って彼の行為を理解することによって、初めて知り得ることだからです。この“後智慧”を基盤とすることによって初めて後世の「科学史家たち」は、ケプラー自身が真に自らの業績として誇ったものに直面して、「彼らの英雄の不合理にひる」むことが出来るのです。
 このように時を隔てて出現する認識ギャップは、トーマス・クーンが「科学革命」の前後において発生する「通約不可能性」として論じていたことと、正確に対応しています。同時に、ケストラー自身のホロン論と合わせて考えるならば、中世宇宙論とケプラーとの間には連続しながらも一種の断絶が発生していて前者の記述から後者を演繹することは出来ず、ケプラーとニュートン以後にもやはり断絶があって前者の記述から後者を演繹することはできない、と捉えることもできます。この断絶の前後をつなぐものがいったい何であるかと言えば、演繹的な記述には解消されないポランニーの「暗黙知」であり、あるいはケストラーのホロンが宿している背景としての階層構造(上位/下位階層とのつながり)であり、そしてケプラーにおいては、彼の持っている宇宙観や、その土台となっている彼の人生そのものです。言うなれば、ケストラーはケプラーの人生と彼の宇宙観を、中世にも近代にも完全に包含されることのない、しかしどちらともある程度の有機的つながりをもっているホロンの実例として描き出しているのです。
 本書の現著名が「分水嶺 "The Watershed"」となっているのは、ケプラーの人生と探究が中世と近代の両面性を宿し、かつどちらにも完全に包含されることのない両義的存在としてのホロンであることを象徴しています。近代的な科学観の“後智慧”によって、ケプラーの宇宙観を科学革命の発展プロセスにおける一階梯としてのみ捉えるならば、彼の表明した宇宙観のうち近代につながる部分だけ(“分水嶺”の手前)が要素的に切り出されて有意味な言説とされ、残りの部分(“分水嶺”の向こう側)は「英雄の不合理」として捨象されてしまいます。しかし、実際にはその有効な言説もまた中世的な「不合理」の中で懐胎し成長したのであり、それを忘却してただ現在の視点と共通するものだけを有意味な言説として取り上げるなら、人間の遂行する知的営為としての科学が現実においてどういう発見のプロセスを辿ってきたのか、言い換えればどうやって“分水嶺”を越えてきたのかがまったく見えなくなってしまいます。
 本書ではケプラーに深く関連する人物としてチコ・ブラーエとガリレオ・ガリレイの二人が特に大きくクローズアップされていますが、この二人についてもケストラーは同じように、現在の視点から見て有意味な要素だけを切りだすのではなく、現在では意味を持たなかったり不合理であるような彼等の人生や宇宙観が、実際には有意味な要素の存立条件として機能していたことを強調しています(ケプラーほど両義性が強調されているわけではありませんが)。

 ケプラーによるこの踏破の旅は、決して古い宇宙観から新しい宇宙観に向けて一直線に進んできたのではありません。ケプラーは占星術を主要な生業の一つとしていましたが、彼の“星たち”は、現代の我々の宇宙観を17世紀の時点で先取りしてケプラーに教えてくれることはしませんでした。近代的宇宙観の在り処を指し示す目印の“ベツレヘムの星”抜きで、彼は試行錯誤によって“分水嶺”を越えてきたのであり、しかも彼自身はその困難な仕事を、古い宇宙観から新しい宇宙観へ至る道筋であるなどとはまったく意識していなかったのです。
 上記の引用で、ケストラーがケプラーの発見プロセスを「インドだと信じてアメリカを発見する」ことになぞらえている部分がありましたが、このコロンブスの自覚なき発見については、私も以前にこんな話を紹介したことがあります。
 昔、アメリカの宇宙開発を巡るジョーク集の本に、こんなエピソードが載っていたのを読んだことがある。
 議会で、NASAの宇宙開発は社会において有用な目的を持たないので予算を削減すべきだという意見が出た時に(こういう意見は常に出るものらしい)、NASAの長官だか誰だかがこう切り返したのだそうだ。
 曰く、コロンブスによる新大陸の発見が、アメリカ合衆国の歴史において決定的意義を持っていることは言うまでもない。だが当のコロンブスは、出航する時に自分がこれからどこに行くのかを知らず、到着した時に自分がいったいどこにいるのかも知らず、帰ってきた時に自分がどこに行ってきたのかも知らなかった。
 同じコロンブスの例えで、こんな答え方もあったようだ。「コロンブスは西回りのインド航路開拓のために航海に出て、新大陸に到着しました。結果的にイザベラ女王は当初の事業の目的を果たすことは出来ませんでしたが、しかしその“副産物”の大きさを考えてみてください」

2007/4/26「世界は広い」

……3つの法則は、「近代宇宙論という大建築を支える柱」である。しかしケプラーにとってそれらは、「1人の気のふれた建築家が設計した彼のバロックふう聖堂を構築するための煉瓦の中のいくつかである」ということ、ただそれだけの意味しかもっていなかった。それらの真の重要性を、彼は全く認識してはいなかった。初期の本の中で「コペルニクスは彼がいかに豊富であるかを知らなかった」と彼は述べたことがあったが、同じことが、ケプラー自身にもあてはまるのである。

(『ヨハネス・ケプラー』p.351)

「まえがき」と訳者あとがきによれば、もともと本書は、古代ギリシアからニュートンに至る宇宙論の変遷を解説した著書からケプラーを扱った1章を独立させて、若干の加筆訂正の上で単独の一書としたものだそうですが、この元の著書のタイトルは『夢遊病者たち "The Sleepwalkers"』というものでした。“後智慧”の観点から見ればテクストの明示的必然性に沿って自然に探求が進行したようにしか見えないプロセスも、実際には曲がりくねって先の見えない“夢遊病者”の道行きであったのです。


【関連】
松岡正剛の千夜千冊 第377夜『宇宙の神秘』ヨハネス・ケプラー


コメント

真の神の天地創造の意図はヒトが考えているの異なるものです

 私達全てに先立って存在し働いていた、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みは、例えばケプラーが神学的な理屈でそうある筈だと考えたものとはまったく異なっていたわけです。
 同じ問題は、いまもありますね。
 一般法則論

不可知論?

正多面体の組み合わせによって宇宙秩序を説明し尽くそうとしたケプラーの幾何学的な理論はまったく成立しなくなってしまいましたが、その後釜に座ったニュートン理論も、その後の相対性理論や量子論の進展によってすべてを説明する一般理論の座を追われ、限定的な条件の下で成立する近似的な理論という役どころ(かなり広い適用可能範囲を持ってはいますが)になってしまいました。現在の一般理論もいずれ同じ運命をたどるかもしれません。
仮にどこかに「真の神の天地創造の意図」があったとしても、それはどこまでいっても近似的にのみ語られるだけで、決して人間がそれ自体として知ることは出来ないんだろうなあ、と私は思います。己の限界を知るにつれて科学は、いつか絶対的な真理に至ることを期待していたルネサンス〜近代の自然哲学者よりも、むしろ“被造物”の絶対的な限界を強調していたアウグスティヌスのほうにより近づいていったと言えるかもしれません。

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