電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

Ads by Google (--年--月--日)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』 (2008年08月21日)

 マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫、2003年)を読んでいました。
 本書の全体(たいした分量ではありませんが)を貫く基本的な論旨は、人間の世界認識の中心を占めると思われている言語化された明示的な知識が、はっきりとした形を取らない非言語的な認識の地平によってその存立を支えられ方向付けられているという、人間の世界認識構造の提示です。この存立構造は自転車の乗り方や泳ぎ方のように身体的な習熟・訓練を伴うものだけでなく、一見もっぱら明示的な知識にのみ依拠しているように見える学問的・科学的な世界認識においても当てはまりますが、決して一方的な依存関係ではありません。
 ポランニーはこの関係を階層構造の機能的結合として捉えており、より高次の段階は低次の段階に境界条件を設定して認識全体を統御しますが、高次の段階の現実的可能性は低次の段階が可能であることによって基礎付けられます。さらにこの階層構造は進化論的な発展図式としても用いられ、生物の進化は無生物に見られる低次の機械論的な段階から人間の知能のような高次の段階への発展として捉えられます。これもまた低次の段階が高次の段階と交代して消滅したというわけではなく、低次の機械論的な段階の単純な組み合わせだけでは高次の段階が説明できない(高次のレベルで「創発」が起きている)一方で、低次の段階抜きではそもそも高次の段階が成立しなくなります。
 この図式が科学の発展に対して敷衍されるとこうなります。科学的知識の体系はより高次の知識体系に向けて発展していきましたが、そのような発展を支えたのは個々の科学者による未知の物事への探求の姿勢です。この探求を支える内面的動機は人により様々ですが、総じて言えば、それとなく知られてはいるけれど明確に言語化され得ない領域=「暗黙知」を把捉していきたいという志向性が、これらの科学者の探求を支えています。複数の科学者によってめいめい探求された知見は、互いに切磋琢磨することによって次第に高次の認識や技術へと発展し、その中で方法論も磨かれてきましたが、めいめいの科学者が独自に研究を進めてもその結果がてんでばらばらの方向に散ることなく、科学や学問を構成する知識体系として有機的なつながりを保ってきたのは、めいめいの科学者に「暗黙知」として感知されたり漠然と認識されているものが、同じもの=実在するこの世界のあり方を志向しているからです。この世界の実在性(リアリティ)は、自由な意志を持った科学者がそれぞれの「暗黙知」に導かれて進めてきた様々な探求が、総体として見れば体系的な知識を形作り、また方法論を共有する科学者の共同体を構成するという帰結をもたらしたことの中に、示されているのです。

 ……以上、まだまだ消化不足のところもありますが、私なりに理解した範囲で適当にパラフレーズしながら論旨をまとめてみました。正直に言って相当危なっかしい議論をしているなあ、という感があります(そこが面白いとも言えるのですが)。

 本書の中でポランニーは、このような考察を行うに当たって二つの契機があったことを示唆しています。はっきり明記している一つ目の契機は、1935年のソ連訪問でブハーリンと議論の機会を持った時に、彼から「ソ連ではもはや純粋科学は不要になった」と言われたことです。全ての科学は具体的な集団的経済目標たる5ヶ年計画に奉仕べきものであるという、科学的探求をもっぱら外在的な目的に従属した道具的有用性の観点のみから捉えるブハーリンの見方に反発したポランニーは、科学がそもそも事前に言語的に明示された探求目標の青写真に沿って計画的に進行するような性質のものではないことを、普遍的な形で示そうとしたのでしょう。
 もう一つの、明記ではないにせよ部分的に示唆されている契機は、本書が書かれた1960年代初頭に一世を風靡していた実存主義(一ヶ所だけニーチェとサルトルの名に言及しているところがありますが)に対する違和感です。自我と世界を徹底的に切り離したところで構想される絶対的個人主義が人間に何の知識も進歩ももたらさないことを危惧したらしいポランニーは、科学的な知識の発展という歴史的経緯そのものが世界の実在性(リアリティ)を示しているのだという点を強調しています。絶対的な独我論的世界観に対してその“外部”のありかを指し示すという点で、ポランニーが「暗黙知」と呼んでいるものは、レヴィナス等の倫理学が「他者」と呼んでいるものにもちょっと近接しているように見えます(どちらかと言えば「内面化した他者」のほうですが)。

 一方でポランニーの議論は、“外部”を指し示す際に少々危うい領域に足を踏み入れてもいます。何が危ういかと言うと、生物相の時系列的変化や科学的認識の進展を、志向性を持った進化論的図式において論じているという点です。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて論じられた素朴なスタイルの社会ダーウィニズムとは異なり、ポランニーは終局的な目的(テロス)に向けてのプロセスとして進化論を語ることを慎重に避けています。科学の発展をもっぱら国家目的に奉仕する手段としてのみ捉えるソ連体制への批判を契機としてきたポランニーにとって、これはむしろ当然のことだったと言えるでしょう。
 しかし、「創発」(原型はベルクソンの「エラン・ヴィタール」概念でしょうか)を通じて低次の段階から高次の段階へと階層構造が時系列的に積み上がっていくという生命進化観や、人間の科学的な認識の進展がこれと平行した構図の下で捉えられているところなど、進化論の時系列的な意義を“右肩上がりの進歩”と同一視しているのではないかと思われるところが随所に見受けられます。目的が明示的なテクスト(5ヶ年計画など)として提示されているわけではなくとも、「目的なき合目的性」(カント)のようなものによって整序された体系的発展が世界の実在性(リアリティ)を志向しているという主張は、一歩間違えれば「真理の唯一の体現者」、言い換えれば「終局的な目的(テロス)は我の先にある」という観念と、あまり変わらないものとなる可能性があります。自由に活動する個々の科学者やその研究成果の複数性が、実際には総体としての「科学的認識」の単数性を構成しているのです。
 今のところ私はポランニーの他の著作を読んでいないので、何故彼がここで進化論的図式を使用したのかについては判りません。ベルクソンの影響だったのかもしれませんし、ブハーリンに対抗して「目的を与えられなくたって科学は進歩する」ということを強調したいあまりに時系列的進歩の観点を前に出しすぎたのかもしれません。あるいは単に、ポランニーもまた人類が右肩上がりに前進していくという観念を(「暗黙知」として)信じる“近代の子”であったというだけのことかもしれません。

 この点で、ポランニーの楽観的な科学観とぜひとも対照させて読んでおきたいのが、以前に紹介したことのあるスティーヴン・ジェイ・グールドの『人間の測りまちがい ─ 差別の科学史(上・下)』(鈴木善次・森脇靖子訳、河出書房新社、2008年)です。(*01)
 科学は常に人間の営為として、個々の科学者(集団的・組織的研究でも基本的に同じです)の営為の蓄積から構成されていくものであるため、それぞれの時代や社会から科学者(個人ないし集団)に及ぼされた社会的・文化的価値観が(「暗黙知」として!)研究成果に入り込むことがあります。その成果が科学的に確証された経験的な実在(リアリティ)として認識されると、価値観が事実そのものとして認知されるようになり、その時々の社会的・文化的風潮の妥当性要求を再帰的に強化していくことになります。
 長い目で見れば、こうした研究成果は別の誰かの反証によって(それこそグールドがやったように)、次第に淘汰されていくものかもしれません。しかし、それは地域的・時系列的な総体としての科学全般が救われるかどうかの話であって、生きている個々の人間について必ずしも当てはまるものではありません。科学は総体としての(あるいは類的存在としての)人類一般の利益を向上させるものですが、それは言い換えれば「個々の人間はともかくとして人類全体としては救われている」という主張であって、個別に見れば科学が人間の利益を損なうケースだって起こり得ます。
 つまり、科学的方法の一般的な妥当性は、人類一般に対してマクロ的に主張することはできても、個々の人間に対してミクロ的に主張できるものではない、ということです。この点を忘却して、ミクロ的な個々の人間の人生に対して「科学的方法は人類全体に最大の利益をもたらすのだから、仮に科学的方法が君自身の人生に不都合をもたらしたとしても、それは人類全体の利益のために受け入れなければならない」というような主張を行ったなら、そこでは科学が“神”にとって代わることになります。
「創発」や「暗黙知」の意義を進化論的図式において、それも時系列的進歩のニュアンスで語ることは、レーニンやブハーリンの“神”に対する対抗言論としては有効かもしれませんが、反面でそれとは別種の、しかしどこか似通った近代の“神”を持ち込む危険性をもまた併せ持っているのです。


 ところで、この本の原著は1962年に発刊されましたが、この当時の科学哲学の主流はカール・ポパーが提唱した反証理論(批判的合理主義)でした。この考え方は、全ての科学理論は原則として「未だ反証されざる仮説」ではあるが、理論構築と反証の絶えざる繰り返しを、不特定多数に開かれた議論と研究の構造的プロセスとして維持することによって、人類は真理そのものに到達することは出来なくともそれに漸近していくことは出来る、というものです。現在でも科学的方法論と言えば真っ先にこの反証理論が出てくるほどポピュラーな考え方なのですが、その数年後にトーマス・クーンがパラダイム論で異なる見方を提示して、大論争が巻き起こりました。
 この経緯については、以前に野家啓一氏の『パラダイムとは何か ─ クーンの科学史革命』(講談社学術文庫、2008年)を紹介した時にちょっと書いたことがありますが(これもいい本ですよ)、ポランニーの科学観はポパーと同じような見方を基調としつつも、この両方にちょっとずつ足を掛けているような趣があります。「真理」への限りなき漸近を目指す漸進的進化を科学の時系列的な構造としている点ではポパーに似ていますが(ポランニーは「真理」ではなく「世界の実在性」として論じていますが)、「創発」を経由して認識や技術が高次の段階に移行すると、その段階での認識や技術は低次の段階の認識や技術から直接演繹することが出来なくなるという話は、クーンの「通約不可能性」概念を連想させるものでもあります。ただ、ポランニーの「高次」と「低次」は異なるパラダイム同士のように並び立っているのではなく、有機的機能結合によって相互に条件づけ合っている関係にあるので、この点ではむしろポパーの漸進的進化の図式に少々の断絶の契機をトッピングして「弁証法的発展」の構図に似たものが出来上がった、といったほうがいいのかもしれません(クーンからますます離れてしまったような気もしますが)。

  • (*01) ちなみにこの本、あくまでも冷静かつ論理的な筆致で実証的に淡々と論を進めているのですが、行間から「熱さ」が噴き出しています。吉田アミさんではありませんが「愛だろ愛!」みたいな感じで。

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://incognita2008.blog32.fc2.com/tb.php/692-0ca93ba3

 | HOME | 

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Author

incognita

incognita

最近はReCTOL(rectol4)という名前でYahoo!ブログにも出没していたりします。

RSSフィード等

Appendix

FC2Ad

FC2ブログ