電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

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アイザイア・バーリン『北方の博士 J・G・ハーマン』 (2008年08月17日)

 アルベルト・シュヴェーグラーの『西洋哲学史』(岩波文庫 上・下)は、古代ギリシアから19世紀前半のヘーゲルに至るまでの哲学の主な流れを、特に画期を為した哲学者個人の列伝形式で概説していくというものです。19世紀までの大まかな流れを見る上で参考になるところが多く、19世紀後半からは20世紀前半にかけて哲学史の概説的教科書としてよく使われたり、普及版としてレクラム文庫に入っていたりもしていたようですが(現在のReclamのラインナップには入っていない模様)、一方ではシュヴェーグラー自身がヘーゲル哲学を基礎としていることもあって、19世紀当時のドイツ観念論の立場から見た哲学史として全体が構成されており、重点の置き方や取り上げられる哲学者の選択もそれに沿った方針で行われています。例えば、アリストテレスの後は列伝としてはいきなりデカルトやベーコンに話が飛んで、その間の千年間における教父哲学やスコラ哲学やルネサンスの人文主義などについては、簡単な総論程度の概説に留まっています。現代の目で見れば視野の取り方が非常にクラシックであり、見方を変えれば明治時代から主にドイツ経由で哲学を輸入し始めた頃の近代日本がどういう方向性で哲学を捉えていたのかを知る参考資料にもなりそうです。
 古典的ヘーゲリアンの著者だけあって、もっとも新しい時代に当たる18世紀~19世紀の記述においてはやはりカントとヘーゲルにもっとも多くの尺が割かれ、その間にフィヒテやシェリング等が少しずつ顔を出しているといった流れになっていますが。その中で、ごくわずかながらデカルト-カント-ヘーゲルの流れにまったく即していない哲学者も取り上げられています。
 そのうちの一人ヨハン・ゲオルク・ハーマンは、カントやルソーのほぼ同時代人でありながら、この当時に当然の哲学的基礎とされていた「理性」や「啓蒙」や「合理主義」に真っ向から反抗して、反合理主義や啓示による真理を堂々と賞揚しました。もともとこの本では反合理主義やドイツ啓蒙主義に対する批判的哲学者はほとんど重視されず、列伝形式としてはヤコービだけが少ない分量において紹介されているだけなのですが、ハーマンに対するシュヴェーグラーの扱いはさらにそっけないもので、たった一ヶ所、「カントの批判主義の反対者たち(たとえばハーマン Hamann、ヘルダー Herder)のうちでは、ひとりヤコービのみが哲学上重要である」(*01)と記されているだけです。


 今週私が読んでいたアイザイア・バーリン『北方の博士 J・G・ハーマン ── 近代合理主義批判の先駆』(奥波一秀訳、みすず書房、1996年)は、20世紀後半の視点からこのハーマンの“発掘”を試みた本であり、後のドイツ・ロマン主義やショーペンハウアー・ニーチェ・サルトルといった実存主義への流れに与えた影響、さらには“言語論的転回”以後の言語哲学とも共通する問題意識の提示といった観点から、知られざるところで後の近代批判の端緒を作り出していた人物としてハーマンを再評価しようと試みたものです。特に、もともと著者のバーリン自身がイギリスの言語哲学/分析哲学の系譜を強く受け継ぐ経歴の持ち主だけあって、後者の“早すぎた言語論的転回”については強いウェイトが置かれています。

 ヨハン・ゲオルク・ハーマン(Johann Georg Hamann)は、カントが生涯の生活・活動拠点としたことでも知られる東プロイセンの中核都市ケーニヒスベルクで1730年に生まれ、若い頃は当時の思潮の主流と言える啓蒙主義や合理的な社会改良の方向性に即した思索を深めていきましたが、ハーマンにとってこの方向性は自らの資質に必ずしも適したものではありませんでした。
友人たちは彼が啓蒙の典型的な嫡子ではないことを知っていた。彼は宗教の本と経済の本を奇妙に混ぜ合わせて読んでいた。ケーニヒスベルク大学で正規に法律を学んだにもかかわらず、この分野で名をなすことができなかった。不精であるかと思うと突然エネルギーを全開にして予期せぬ方向へ突っ走るといったことを交互に繰り返していた。体系性が欠落していた。たびたび憂鬱にみまわれていた。どもりだった。病的な矜持のゆえに、パトロンたちと諍いを起こしていた。どんな定職にも落ち着くことができなかった。(略)ハーマンは当初、一見して体制に順応し、啓蒙主義を信奉していたにもかかわらず、その気質からすればむしろ体系性の全体に対する荒々しい敵対者なのだ(略)。(略)彼は元来、宗教的・保守的・「内向的」な十七世紀の人間なのだが、たまたま異質な世界に生まれ落ちてしまったのである。理性や中央集権化や科学的進歩の輝かしい新世界は、彼には息のできない世界であった。

(『北方の博士』p.14-15)

 リガの豪商ベーレンス家をパトロンとしていたハーマンは、この一家から委嘱された何らかの使命(具体的な内容ははっきりしないようですが)を帯びて1756年からロンドンに滞在しましたが、委嘱された仕事にも失敗した上にこの地の生活に順応できずに非常に強い疎外感を覚え、堕落した生活に溺れるようになりました。この時に、藁にもすがる思いで、幼少の頃に馴染んでいた敬虔派の信仰に回帰したことが、彼の決定的な転機となります。
敬虔派の人々が霊の苦悶にみまわれたときに行なうことを、彼もまた行なった。初めから終わりまで聖書を読み進めたのだった。以前に読んだときとはうってかわって、彼は今やついに「心の中に友[をみつけた]。私がなによりも心の空虚、暗闇、荒廃を感じていたときに、友は心のなかにそっと入ってきてくれた」。愛に飢えていた彼が、今やそれをみつけた。1758年3月13日、彼は聖書を真剣に読み始め、敬虔派の流儀にならって、みずからの霊の経過を日ごと書き留めていった。すぐあとで彼は、ルターの真の弟子さながら、次のように記している。肉である文字の下には不死の魂、神の息、神の口の息、闇に輝く命と光があり、これを見るための目が人間にはあるに違いない、と。
 この経験から抜け出してきたとき、ハーマンは一変していた。……

(『北方の博士』p.17)

 こうしてハーマンは新たなる生に目覚めるのですが、ハーマンが合理主義に対する徹底的な反対者たりえたのは、一度は合理主義的な思考に彼自身も沈潜し、合理的理性と概念操作に立脚した哲学的思索を自らのものとしていたが故なのではないか、と私には思えます。ちょうどアウグスティヌスの“回心”体験や、ブッシュ米大統領の経歴に見られる「ボーン・アゲイン・クリスチャン」の経験のように、ある立場から別の立場への“転向”を経験したものは、自らの意志によって自分自身の立場を決定したという意識が強く働くために、新しい立場に対して自覚的に強力な支持を打ち出します。
 マニ教や新プラトン主義からキリスト教に転向して以後のアウグスティヌスが、マニ教に対するもっとも強力な“論敵”として活動していたように、「啓示の真理」に回帰してからのハーマンは、合理主義や近代型の客観的世界認識によって人間と世界を隈なく説明し尽くそうとする啓蒙の精神に対して、もっとも強固な抵抗者となったのです。ハーマン自身が一度は合理主義や啓蒙の精神を内在的に理解し支持していただけあって、その限界や問題点についても彼は内在的な理解を踏まえた上で批判することが可能でした。形而上的な形ではであれ論理を尽くして世界の真理を極めようとした新プラトン主義の思索にアウグスティヌスが習熟していたことは、回心後においてもやはり最大の思考の武器となっていましたが、ハーマンの場合にもこれと同じことが言えるのではないでしょうか。
 ハーマンの合理主義・啓蒙主義への批判は、聖書に立脚していても決して神学理論に根差したものではなく、むしろ経験主義的な契機を最も重視するものであり、その観点からヒュームのような経験論が非常に高く評価されていました。しかもそれらの主張のほとんどは純理論的探究という形ではなく、合理主義者の論敵に対する論争的・機会的な主張として提起されたものでした。そもそも合理的に構築された全体理論の存在そのものを攻撃の的としたハーマンにとって、自分自身が対抗理論として別種の全体理論を提示するなど考えられないことであり、そういう意味ではハーマンの統一的理論なき主張は、それ自体としては主張の内容と形式が完全に一致しているとも言えます。
……彼は神学や形而上学の原理、教理あるいはア・プリオリな論拠のなかに明証を求めたのではなかった。これらは啓蒙主義の側でも、当然のことながら、論証方法としては疑わしいと考えられていた。むしろ、みずからの日ごとの経験、直感的にではなく経験的に知覚される事実そのもの、人間やその行為に関する直接の観察、自己自身の情熱、感情、思惟および生活様式に関する直接の内省──これらのうちにハーマンは明証を求めたのだった。
 (略)理論や知的な構築物はどれもせいぜい有益な虚構であり、最悪の場合にはなんでも歪曲してしまう媒体、すなわち現実そのものと向かいあうことからの一種の逃避にすぎない。こうした懐疑、反合理主義、ロマン主義の生みの親は、実質的にハーマンである。それらの思想の多くはすでに、ルネサンスの新プラトン主義者たちやパスカルにあるし、さらに多くのものがヴィーコにはある。しかし正面攻撃をしかけたのはハーマンであった。

(『北方の博士』p.31-32)

 さらにハーマンが強調していたのは、人間の世界認識の根本には真理ではなく信仰があるということ、すなわちずっと後代のプラグマティズムで言えば「実在仮説」に相当する前提的な信憑(ハーマンはもっと実在論的に捉えていたようですが)が、合理主義的な思考ですらやはり不可欠であるという点の指摘です。
……彼ら(引用者注:ハーマンの論敵である哲学者)は、なまの事実、非合理なものを否認している。物事はあるがままにある。このことを受けいれぬ限り、知識は存在しない。というのはどんな知識も、信念ないし信仰、信(Glaube)のうえに成り立っているからである。椅子、机、木であれ、聖書の真理や神であれ、それらの実在を信じることが基本なのである(ここでハーマンは論証抜きで、知から信へと移行している)。すべては信仰、信念に与えられるのであって、その他の能力に与えられるのではない。彼によれば、信と理を対比させるのは、深刻な誤謬である。まず信のときというものがあり、それに理のときがつづく、ということではない。こうした考えは虚構にすぎない。理は信にもとづくのであって、信にとってかわることはできない。(略)合理的な宗教というのは、矛盾した言い方である。宗教の真理は、合理的であることに存するのではなく、現にあるものと向かいあうところにある。(略)存在は理性に対して論理的に先行している。すなわち存在するものは、理性により証明されることはありえないのであって、それ自身がなによりまず経験されねばならない。こうして初めて、お望みとあらば、その上に合理的な建物を築くことができるのである。むろんこの建物の確実性が、本来の土台の確実性にまさることはありえない。理性以前の現実というものが存在するのである。それをどう整えるかは究極的に恣意に委ねられている。ここには実際のところ、現代の実存主義の萌芽がある。その成長過程は、次のようにたどることができる。ベーメやドイツの神秘主義者たちからハーマンへ、そして彼からヤコービ、キルケゴール、ニーチェ、フッサールへ、メルロ=ポンティやサルトルのとった筋道も、そこから分岐しているのだが、その紆余曲折からは、別の物語が生まれている。ともかくこのような鎖を繋ぐ輪として外しえぬもの、それがハーマンの思想なのである。

(『北方の博士』p.47-48)

「無数の理性的根拠を積みあげてみたところで、たった一つの些細な事実にさえなりえない」(p.51)というハーマンの主張は、理性による思索の具体的な現われである言語にも向けられます。言語によって記述された理性が世界の外在的・客観的な真実を現わしているなどというのは思い込みであり、人間は言語の使用によって初めて思惟を可能とし理性を可能としているのであって、その言語をはなれて理性が独立して存在し人間を支配することが出来るなどと考えるのは思い上がった理性の錯覚にすぎない、というわけです。
……ハーマンの主張によれば、次のような考えは無意味な幻想にすぎない。人間の「内部」、すなわち人間の頭ないし心のどこかの部分に、思惟ないし推論と呼ばれる独立の活動過程が存在し、それを人間は意のままに選び、目的に合わせて発明した(あるいは他者から完全なかたちで獲得した)一連の象徴へと分節化する。しかしまた人間は、それに代わる仕方で、つまり非言語的ないし非象徴的な観念を手段とし、なんらかの非経験的な媒体において、形象や音声や視覚的データなしに、思惟ないし推論を行なうこともできる、という考えである。もちろん、このような考えはしばしば正しいとされてきたし、おそらく実際には今でもほとんどの場合、正しいとされている。しかし、思惟とは象徴の使用である。非象徴的な思惟、すなわち象徴ないし形象を欠いた思惟というのは、わけのわからない概念にすぎない。(略)思惟するという概念は、なるほど多義的ではある。ただどのような意味においてであれ、思惟とは、なにかを、たとえば形象、紙上の記号、音声などを意図的に使用することなのである。客体、すなわち事物や人物、事件や事実を指示することである。もっとも、この指示を行なうためにどのような象徴を用いるかは別問題である。

(『北方の博士』p.105-106)

……象徴は、ときに誤って、抽象観念と呼ばれ、それ自身独立した生命をもつもののように考えられてしまう。ときに象徴は、(中世の哲学的実在論者たちによってなされたように)なおいっそう誤って、超越界の非感覚的な永遠の特質とみなされ、普遍と呼ばれてしまう。(略)しかるに、現に存在するのは、もろもろの人格と、彼ら自身の経験を思い描く数々の様式からなる世界、これのみである。さらに、そうした概念化の様式は、彼らの関係を規定する機構によって規定されている。このことを言い表そうとして彼は、創造は語りであると言ってみたり、言語を通して「すべての事物(alle Dinge)が作られている」と述べてみたり、人間の語りを創造的活力の一形式として描いたりしている。このゆえに、「言葉(Wort)を概念(Begriff)と、概念を事物そのもの(Ding selbst)とみなすこと」が、極悪の罪なのである。ところがまさにこの大罪を形而上学者たちは犯してきた。言葉、概念、実在の混同によって、人間はみずから構成した想像上の実在に取り巻かれ、やがてそれらの実在を、まるで現実の力や神々であるかのように崇拝し始める。かくして人間の生は歪められてしまう。なぜなら、人間のまことの存在と、人間が想像上の存在者の立場から(意図せずに)発明した数々の規準との間に、矛盾が生じるからである。つまり自己表現的で創造的な存在、愛し(あるいは憎む)存在と、社会的・道徳的・美的・哲学的な規準とが衝突し合うようになってしまう。(これは、人間の疎外に関するルソーやディドロの考えを、とほうもなく広く意味深長に一般化したものである。)人間は、そうした想像上の存在者の愛顧を求め、その者に近づこうとし、その者に対して自己を弁明したがっている。それは、人間自身が作り出した怪物にすぎないというのに。自己自身を裁くために作り上げたものを、「公論」「人類共通の道徳」「国家」「教会」などと呼んだり、もっと人格的な神のようなもの、それどころかもっと専制的な神であるとまで思い込み、それを前にして身震いし、その権威を絶対的なものとして受けいれている。しかしこうしたものは、調べてみれば、絵空事、強迫観念であることが判明する。それは、なんらかの弱さや躓き、現実に対する盲目さに起因するのである。またこうした欠陥を人間の倒錯した知性や想像力のグロテスクな考案などによって粉飾しようとしたせいなのである。
(略)
 ハーマンは、疎外という呼び名を用いてはいないが、人間の条件に関するそうした見方を打ち立てた人物の一人である。……

(『北方の博士』p.115-117)

 先にも紹介したように、著者バーリンはハーマンの言語観に強い注意を払っており、本文の記述以外にも補遺としてハーマンの言語観を概括的にまとめています。
 ハーマンの考えを要約すれば、次のとおりである。
(a)現実の客観的「構造」が存在し、それを「論理的に完全な言語」が正確に反映する、などということはありえない。
(b)それゆえ、哲学者たちが普遍妥当性を要求してきたもろもろの命題は、当然ながら無意味である。
(c)規則や法則は、持ちこたえるだけ持ちこたえつづける。しかし持ちこたえなくなれば、破られねばならない。
(d)理論上の問題(や実践上の間違い)は、論理学や形而上学や心理学の理論が犯す誤りに起因するというよりも、むしろもろもろの理論そのものの普遍的・恒久的な妥当性なるものを狂信することから生じる。(略)
(e)どの言語も、生の様式である。生の様式は、経験のパタンにもとづいており、このパタンそのものは批判の対象となりえない。そうした批判的吟味を行なうためのアルキメデスの点、すなわち経験のパタンにとっての外部は、だれにも見いだせないからである。
(f)異なる語彙、文法、語源的意味、構文の間において、完璧な翻訳は原理的に不可能である。なににもましてばかげた妄想は何か。自然な言語にみられるような不合理な付着物や個別的な特異性を拭い去った普遍言語なるものを探究することである。(略)
(g)(f)の帰結として、次のことがいえる。文法、論理ないしその他の規則をたんに適用するだけでは、人々の語っていることを真に理解することはできない。人々の象徴の世界へと「入り込む」働き ── ヘルダーのいう「感じ入る働き(Einfühlung)」 ── によってのみ、それゆえにまたひとえに過去や現在における現実の言葉遣いをまもることによってのみ、理解は可能となるのである。方言や専門用語でさえ、「生の押印」を帯びている限りは、生命や創造の様式の中心にある。こうした様式はしかし、言語が統一化され、ひいては生が画一化されると同時に、破壊されてしまうのである。
(h)結論的にいえば、われわれは規則や原則なしではやっていけない。しかし他方、われわれは絶えず疑ってかからねばならない。規則や原則にたぶらかされたあげく、具体的な経験が供してくれる不揃いなものや独特なものを拒絶したり無視したり踏みにじったりするようなことは、断じてあってはならないのである。
 まさに以上のような教説が、今世紀中庸の英語圏の哲学者たちの耳に、ところどころ聞き覚えのあるものとして響いてくるのは、確実なのである。

(『北方の博士』p.183-185)

 バーリンによるパラフレーズが多少入っているとはいえ、さながら早すぎたウィトゲンシュタイン(それも“後期”の)といった風情です。
 鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書)で論じられているところでは、ウィトゲンシュタインが1914年に偶然立ち寄った書店で出会ったトルストイの『要約福音書』は、フレーゲの記号論理学に匹敵するくらいの大きな影響を彼に及ぼしたそうですが(*02)、ハーマンがロンドン生活のさなかに見出した聖書は、さながらウィトゲンシュタインにとってのトルストイと同じような効果をもたらしたのかもしれません。ただし、その後のハーマンが神の恩寵と啓示を声高に主張したのに対して、ウィトゲンシュタインは“信仰”を自らの言葉として語ることを潔しとせず、むしろ「語りえぬもの」の領域に“信仰”を固く封じ込めていました。

 こうした近代批判や言語批判は、21世紀に入った今では思索としてむしろスタンダードに近いものと言ってもいいかもしれません。しかし、バーリンがハーマンに注目した理由は、啓蒙や合理主義がもっぱら人類にとっての新たな福音であり、誰もそれを問題視することなど及びもつかなかった時代に、彼がそれを忌むべき問題として剔抉し主題化した人間であったということです。(*03)
……ハーマンに注目すべき最大の理由の一つは、彼がどの思想家よりも早く量概念への移行を意識し、それに対して激しく抵抗した点にあるのだ、と。ある時代、ある文明において高まりつつある思潮に対して抵抗しようとすることを反動と呼ぶなら、ハーマンは紛れもなく、激烈にして完璧な反動家であった。この点はハーマン自身、自覚していたし、誇りに思ってもいた。彼は、謎めいているとはいえ鋭い調子で、臆することなく語った。それから四半世紀もたってようやく、バークがあの有名な哀歌を口にした。騎士道の時代は過ぎ去り、計算尺と統計表を携えたあさましい機械人間どもがやってきた、と。フランス大革命の後や、イギリスにおける産業革命の帰結が生活の全領域に浸透したときになって、シャトーブリアン、メーストル、コールリッジ、フリードリヒ・シュレーゲル、ノヴァーリスといった人々のように保守的な反応を示してみても、そこにはなんら驚くべきことはない。未来の輪郭を預言できる才能 ── あるいは不幸 ── を授かった鋭い感性の持ち主は数少ないが、ハーマンはまさにそうした人物の一人である。みずからの預言した未来については、それを歓迎する人もいるし、嫌がる人もいる。ハーマンのように恐怖と敵意を抱く場合もあるだろう。これらの人々に与えられるのは、はっきり分節された像というよりも感覚に似たものであり、彼ら自身、それを表現する語彙をほとんど持ちあわせていないのがつねである。しかし、彼らは詩人である。(その鋭敏な ── 過敏な ── 生来の体質が、人間の生の深層における変化に対して、真っ先に反応を示すのである。)それゆえに彼らは、いかに曖昧で主観的感情に満ちたものであれ、ともかく言葉を見つけ、近づきつつある大変動の予感に表現を与える。このような人たちこそ、預言者と呼ぶにふさわしい。本人が意識しているかどうかはともかく、非凡な歴史感覚に恵まれた人たちなのである。あまりにも時期尚早な場合、彼らが全身で感じ取っているものの意味を、ふつうの洞察力しか持ちあわせていない人に伝えるのは、至難の業である。他の人々のいまだ見えぬものを目にしながら、それを語り伝えるすべがなんら見いだせないとすれば ── それが来たるべき運命の確かな前兆であると思える場合にはなおさら ── 生身の占い棒たちは自己閉塞に追い込まれるだろう。あるいは、余儀なく生きている暗黒の世界からなんとか抜け出し、絶境へと落ちのびるであろう。

(『北方の博士』p.179-181)

 本書の書名「北方の博士 "The Magus of the north"」(元のドイツ語では"Magus in Norden")とは、ハーマンが同時代の人々に名付けられた綽名に由来しています。Magusは複数系でMagi、つまりイエス生誕を祝して東方からベツレヘムを訪れた三人の賢者を指しており、恐らくバーリンは同時代的には必ずしも理解されない思考と行動を取る人物=「預言者」を指すのに格好の表現として、この綽名を書名に取ったのでしょう(バーリン自身、「北方の博士」に関するp.100-101の脚注でそれを示唆しているように見えます)。皮肉なことに、「預言者」自身が同時代的な言語=生の様式を内面化しているからこそ、「預言者」は「全身で感じ取っているもの」を人々に伝えるための語彙を見出すことが出来なかったのだ、と言えるかもしれません。
……彼こそが、数量化された世界に対して最初の一撃を食らわせたのだった。その攻撃はしばしば無分別であった。けれども、われわれの時代の到来を受けいれぬその拒絶の姿勢において、ハーマンはいくつかの問いを投げかけた。まさにこれらの問いが、われわれの時代にあって最も切迫した問題群の一部をなしているのである。

(『北方の博士』p.181-182)


  • (*01) シュヴェーグラー『西洋哲学史』谷川徹三・松村一人訳、岩波文庫、下巻p.187
  • (*02) フレーゲやラッセルが展開した記号論理学の発想は、ウィトゲンシュタインの初期の思考を形式的な側面で完全に支配していました。ウィトゲンシュタインの主著であり生前に公刊された唯一の著書でもある『論理哲学論考』では、ほぼ全編に渡って、記号論理学による言語の厳密な論理的定式化という方向性が貫かれています。
  • (*03) 永井均氏はニーチェに関する本の中で、哲学者の仕事を「問いに答えを与えること」ではなく「誰も問おうとしなかった問いを独力で作り出すこと」だとしています。「偉大な ── と後から評される ── 哲学者は、少なくとも彼が生きていたその時点ではまったく余計なことをしていた人である。彼は、すでに存在し、多くの人々が思い悩んでいた問題に、一つの解答を与えたのではない。だれも感じてなどいなかった問題をただ一人で感じ、ただ一人でそれと格闘し続けたのである。彼の仕事の意義は、彼自身の仕事の中ではじめてつくり出された。その仕事の意義を評価する価値基準そのものが、その仕事のなかではじめてつくられた。それが偉大な仕事であったとされるのは、彼だけがこだわり、ただ一人で為したその仕事の内容が、後になってなぜか人々の心を捉えたからにすぎない。」(永井『これがニーチェだ』講談社現代新書、1998年、p.9)

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