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電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

科学とマクガイバーと仮面ライダー (2008年05月11日)

 2月に紹介した「理系R25」の話の中で、企画の発端が日本の自然科学教育に関する最近のニュースにあるんじゃないかという予想を立てていましたが、それに関連して。


 他にも探せばいろんな見方や意見が出てきます。「ゆとり脱却」を旗印にした学習指導要領改訂とタイミングがかち合ったこともあって、こちらのニュースもそこそこ話題になっていたように思います。

 具体的な議論の中身についてはここでは触れませんが、議論を見ていてちょっと疑問に思ったのが、学校教育を改良することによって「学」とか「知」に対する子供たちの全般的な態度も改良可能であると、割と素朴に信じ込んでいる論調が多いように見受けられたことです。
 確かに学校教育というのは重要な要素ですが、一方ではそれ以外の生活環境の要素によってその効果が容易に打ち消されたり、教え方によっては「効果ゼロ、むしろマイナス!」になってしまう可能性もあるものです。

 先日たまたま「理系R25」とは無関係に、カール・セーガンの絶筆となったエッセイ『人はなぜエセ科学に騙されるのか』を再読していたのですが(私はこの本をたまに読み返しています)、その中で子供が科学的なものの考え方に馴染むための方法として、日常的に触れているテレビのエンターテインメント番組を利用することを提言しています。
 科学をもっとテレビに登場させるために、いくつか考えられる方法を挙げてみよう。
  • 科学の驚異や科学の方法を、ふだんからニュース番組やトーク番組で取り上げるようにする。発見のプロセスには、真の人間ドラマがある。
  • 『解決された謎』というシリーズ番組を作る。このシリーズでは、手探りの推理にはじまり、最終的には合理的な解決がもたらされる。法医学や疫学にからむ事件なども取り上げるといいだろう。
  • 『そうだったのか』シリーズ。このシリーズでは、政府のついた嘘にマスコミと大衆がまんまと引っかかったケースを追体験する。第一回目は、アメリカがベトナム戦争にはまり込むきっかけとなったトンキン湾「事件」。第二回目は、1945年以降、疑うことを知らない無防備な一般市民と軍人が、「国防」の名の下に、計画的に被爆させられた問題などを取り上げてはどうだろう。
  • 著名な科学者や、政治や宗教の指導者がこれまでに犯した誤解や過ちを、一つずつ取り上げてゆくシリーズ番組。
  • 有害な似非科学を暴露する番組。「あなたも○○してみよう」という視聴者参加コーナーを作る。「スプーンを曲げてみよう」「人の心を読んでみよう」「未来を予言してみよう」「心霊手術をしてみよう」「コールドリードをしてみよう」などが考えられる。「テレビ視聴者を怒らせてみよう」というのもいいかもしれない。「人はこうしてだまされる」という体験学習もいいだろう。
  • 最新のコンピューター・グラフィックス設備を使って、広範なニュースに対応できる科学的映像をあらかじめ用意しておく。
  • 費用のかからないテレビ討論会。一回の放映分を一時間くらいの長さにして、毎回テーマをめぐって賛成と反対に分かれて討論をする。プロデューサーはどちらのサイドにもコンピューター・グラフィックスの予算を提供し、司会者は証拠を厳しく吟味する。討論のテーマはできるかぎり広い範囲から選ぶ。「地球は丸いか平らか」など、科学的な証拠がはっきりしている問題を取り上げてもよいだろう。答えがそれほど明白でないもの、たとえば「人格は死後も生き続けるか」とか、中絶問題、動物の権利や遺伝子工学などの問題を取り上げてもいい。本書の中でこれまで取り上げた似非科学をテーマにしてもいいかもしれない。


 一般の人々の科学の知識を増やすことは、国家にとって差し迫った問題である。もちろん、テレビだけでその要請に応えることはできない。しかし、短期間に科学の理解を深めるためには、まずはテレビからだ。

(カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』青木薫訳、新潮文庫、1997年、下巻p.286-288)

 この通りの番組を作って当たるかどうかはともかくとして、インターネットが普及した現在でもやはりマスメディアの影響力は巨大なものですから、友達と共有できる話題の源泉としてのテレビ番組にこういう教育的要素を仕込んでおくのは、決して無意味ではないと思います。
 ただ、草葉の陰のセーガン博士にはお気の毒ですが、このような方向性の番組を制作しても、見てくれる層はかなり限られてくるでしょう。最初からもっぱら科学的啓蒙を狙って、それを主眼とした番組を制作しても、そういう番組に積極的にチャンネルを合わせてくれるのは、もともとこういう科学的な話題に興味を持っている子供や親に限られてくると思います。こういうメッセージを本当に届けたい視聴者層、つまり科学的な物事に馴染んでいなくて、また興味も持っていないような人々は、そもそもの最初からこういう番組にチャンネルを合わせようというインセンティブを持っていないのではないでしょうか。
 こういう無関心層にもメッセージを届けるためには、むしろ既存のエンターテインメントのフォーマットの中に、少しずつでいいから(最初から大量に仕込むと拒否反応が起きる可能性があるので)科学的啓蒙のメッセージを埋め込んでおくほうがずっと効果的ではないかと思います。
 私が具体的に念頭に置いているのは、昔アメリカのTVドラマにあった『冒険野郎マクガイバー』という番組です。
 ドラマ自体は世界を股にかけて活躍するエージェント・ヒーローものなのですが、このドラマの大きな特徴は、主人公のマクガイバーが陥った危機から脱する時(ドラマの見せ場です)に用いる手段にあります。ジェームズ・ボンドのような秘密兵器を持っているわけでもなく、シュワルツェネッガー演じる超人的パワーの持ち主でもないマクガイバーは、身の回りに転がっている何気ない物品を予想外の仕方で使ったり組み合わせたりして、科学的な智恵と工夫で危機を乗り切るのです。
マクガイバーは特殊部隊出身で、フェニックス財団の契約エージェントとして、世界中の悪を相手に日夜闘っている。このハンサムなヒーローの一番の特徴は、武器を使わず、身近な日用品で窮地をしのぐ機知。頭の回転が速く、敵の厳重な警備網をかいくぐり、豊富な科学知識に基づき手近にある材料を使って、悪の陰謀を打破する。ペーパー・クリップで核ミサイルの発射を食い止めたり、チョコバーで強力な酸の流出を防いだり、カゼ薬のカプセルで手製爆弾を爆発させたり…。しかもそれらを瞬時にやり遂げる。マクガイバーは女性のハンドバッグに入っている物だけで奇跡を起こせるスーパーヒーローなのだ。

パラマウント ジャパン『冒険野郎マクガイバー』作品紹介

 マクガイバリズムとは、その場のひらめきで身近にあるあらゆるものを利用して、ときには人をだまし、ときには何かを作り上げ、危機的状況を回避するといった、常人ではとり得ないような独創的な行動を指す。
 マクガイバリズムという言葉は、第2シーズンの3話目にあたる第25話「スティング作戦開始」で初めて登場する。(略)
 マクガイバリズムとは具体的に、農薬とエーテルから爆弾を作ったり、人工衛星の部品からハンググライダーを作ったり、重曹とお酢を混ぜて煙幕を作ったりと様々で、これといった定義はない。しかし、マクガイバー自身は自らがとる行動についてこう語っている。
 「トラブルに出会う度、手近にあるものを組み合わせ、危機を乗り越える。その昔学んだ物理や化学が、生きた知識として活かされている」(第44話「大逆転」より)
 彼には大量の知識と豊富な経験があり、しかもその知識を実際のものに置き換えて且つとっさに行動できる能力がある。普通の人間はかなり訓練をしないと、瞬時にマクガイバリズムを発揮することは難しいのではないかと思われる。

The MacGyver Archives「マクガイバリズム(MacGyverisms)について」

 私がいちばん興味深いと思うのは、『マクガイバー』が単に科学的であることじゃなくて、科学的なアプローチをアクションヒーロードラマのフォーマットの中に上手く埋め込んであるということです。このように、「科学的だから面白い」んじゃなくて、「面白いものの中に科学が紛れ込んでいた」、あるいは「科学がドラマ的なカタルシスに結びつくから面白い」という作り方のほうが、見ている側も「勉強させられている」というストレスを感じることなく、自然に「科学って面白いもんだなあ」と思ってくれるのではないでしょうか。

 日本でこのような方法を取るとしたら、やはりアニメや特撮のヒーロー・ヒロインの行動の中に、「科学を使う」シーンを“無理なく”(ここ重要)埋め込むということになるのでしょう。
 例えば、キー局で日曜朝に放送されているスーパー戦隊シリーズで、一昨年に放送されていた『轟轟戦隊ボウケンジャー』なんかは、この手の要素を比較的盛り込みやすいモチーフを扱っていたように思います。
 もちろん、こういった番組が即座に『マクガイバー』のような作風に変化することは、現状では不可能だと思います(そもそも対象年齢の差もあるし)。現実的に考えるなら、科学的知識で直面した問題を解決するような描写は2~3話ごとに1回か2回くらいの割合で、ワンポイントのアクセントとして入れるのが限界でしょう。それも、問題解決が物語のクライマックスに当たるような描写ではたぶん使用できません。そういう決定的な局面の問題解決は、地味な科学的知識によってではなく、スーツ体に変身した上でバンダイからなりきり玩具として販売されている特殊アイテム(または巨大メカ)によって行なわなければならない、という不文律もあるでしょうし。w

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 戦隊ものじゃなくて仮面ライダーのほうに取り入れたらどうなるか……というのも考えたんですが、ちょっと想像できませんでした。
 あくまでも私の受けた個人的な印象なのですが、現行のライダーシリーズは戦隊以上に「生きる力」志向が強いというかニーチェ的(?)というか、「理屈はどうあれとにかく強く生きていく」という落としどころに向けて全体が構成されることが多いように思います。そのため、番組の対象年齢は戦隊よりもやや高めに設定されているにも関わらず、「正しい知識の検証と活用」という契機はむしろ盛り込みにくそうに見えます。盛り込むとしても、頭でっかちでイヤミな、主人公とライダーバトルをする相手のほうに役を割り振られる可能性が高いのではないでしょうか。(カイザ?)


 ……以下、「科学を教えるためにはどうするか」という趣旨とはちょっと外れますが。

 以前に、初代仮面ライダーの劇場版リメイク『仮面ライダー THE FIRST』(2005年公開)で、あの「水からの伝言」が肯定的に引用されていることが、一部でちょっと話題に上っていました。

 この『THE FIRST』もまた、毀誉褒貶混じりながらも平成仮面ライダーシリーズの王道路線を構成してきた白倉伸一郎プロデュース/井上俊樹脚本のコンビが、ストーリーの骨格をかたちづくっています。
 この作品について、評論家(でいいのかな)の宇野常寛氏が、公開当時に「なんでメロドラマなの? 『響鬼』の迷走もあわせて、東映の制作部がガタガタになっているんじゃないかと心配になる一作。(略)80年代後半のトレンディドラマでもやらなかったようなこのクサさは何の冗談?」と酷評しており、同じ文中で、2年前に公開された『仮面ライダー555』の劇場版の出来が良かったことと比較されています。
 でも、『THE FIRST』が目指していた根本的な方向性は、実のところ他の平成ライダー作品(同じ白倉井上コンビの『アギト』や『555』や『響鬼』後半など)と、そんなに変わっていなかったのではないでしょうか。

 白倉井上コンビの平成ライダー路線の特徴として、よく「“正義”に対する懐疑」というのが挙げられます。
特撮ドラマの場合、従来の特撮ヒーローが持っていた善悪二元論、勧善懲悪的な論法に対し非常に懐疑的であり、プロデュース作品には「ヒーローであっても俗物である(『超光戦士シャンゼリオン』の主人公、涼村暁など)」あるいは「そこには正義も悪もない。人間が生きている、ただそれだけのこと(『仮面ライダー555』の企画書より)」といった、ヒーロー的な「正義」の概念を否定する要素が含まれることが多い。

Wikipedia「白倉伸一郎」の項

「“大文字の正義”への懐疑」については、白倉氏本人が『ヒーローと正義』という単著まで出して強調している点ですが、単に「正義の不在」という“欠如”だけに着目すると、その代わりに何が置かれたのかが見えにくくなります。
 上記の555企画書の表現を借りれば、平成ライダーでは、「そこには正義も悪もない」という形で“欠如”ないし“非存在”が表明されているだけでなく、「人間が生きている、ただそれだけのこと」として、別の何かの“存在”もまた表明されているのです。

 先日、古いビデオを整理していたら、『仮面ライダーアギト』の序盤をリアルタイムで録画していたもの(2001年)が出てきたのでぼーっと見ていたんですが、見ていた当時には知らなかった上記の“作風”が、今の目で見返すと意外なところで発見できることにちょっと驚きました(『アギト』では劇場版を含めた全シリーズの脚本を井上氏が書いています)。
 作中に登場する3種類のライダーのうち、警察が運用するパワードスーツ型のライダー「G3」を巡っては、当初から装着員だった氷川誠(演ずるはデビューしたばかりの要潤)に対して、G3装着員の座を狙う北條刑事が事あるごとにイヤミを零すというのが、お決まりの光景になっていました。
 で、第4話で同じように北條君のイヤミ攻撃を受けて、「僕は装着員に向いていないんでしょうか」と落ち込む氷川に対して、G3ユニットの現場指揮を執っている小沢澄子管理官が、
「正しいか間違ってるかなんてどうでもいいの。男はね、気に喰うか喰わないかで判断すればそれでいいの!」
と、喝を入れておりました(横にいた補佐の尾室君に「そんなムチャな」と言われていましたが)。
 小沢さんにはこういう強気な描写が非常に多く、リアルタイムで見ている時には「何だかえらく押しの強いキャラだなあ」としか思わなかったのですが、今から思い返してみると、この人物の押しの強さというか、「正誤ではなく強固な意志こそが世界を変える」という行動律は、「正義の代わりに置かれるもの」の典型を指し示しているようにも見えます。
 アギトの劇場版『PROJECT G4』のクライマックスで、新型スーツ「G4」の攻撃に押されまくっているG3-Xの氷川に対して、
「人間・氷川誠として戦いなさい!」
と叫ぶ小沢と、その声に応えてG3-Xのマスクを外して戦い始めてから形勢を逆転させていく氷川もまた、その象徴であるかのように見えます。
「人間の意志が機械の力を圧倒する」というのは、ヒーローもので“熱さ”を表現する時の描写方法としては定番であるとも言えますが、私が思うに、『THE FIRST』の描写も決して他と隔絶しているのではなく、むしろこの延長線上にあるのではないでしょうか。
 ただ、井上氏はヒーローものの中で「人間の意志の優越性」を描く時に、しばしば恋愛をモチーフに多用するので、メロドラマっぽさもたぶんそのあたりから出ているのでしょう(よく見ると『555』もかなりメロドラマっぽいし)。「恋愛感情こそが人の“思い”の強さをもっとも強く表すのだ」というドラマツルギーのようなものを持っているのかもしれません。
 そして、「水伝」という物語は、このような「人間の意志の力」「人の思いの強さ」を伝えたいと強く願う人にとって、非常に魅力的なコンテンツに映るのでしょう。

 井上氏は関わっていませんが、白倉氏がプロデューサーとして手がけた(今のところ)最後のライダー作品に当たる『仮面ライダー電王』は、一見過去の平成ライダーとはおよそ異なる作風に見えますが、実際にはこのような種類のヒーロー性を、ひとつの極限にまで突き詰めたものだともいえます。
 人の“思い”は強い、“契約”よりも強い。世界の摂理を変えることは出来ないけれど、そもそもこの世界が人の意識と無関係に物理的実体として成立しているのではなく、人間の記憶を織り成すことで成り立っているのなら、契約文書ではなく人の絆の記憶こそが世界を救うのだ ── とでも言うかのように。
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