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お国柄 (2008年02月19日)
親から子への愛情のあり方にも、お国柄があるようです。
ふむふむ、そういう要因もあるのか。
私は私で、全然別のことを思い出していました。
1980年に川崎で浪人生が両親を金属バットで殴り殺すという事件がありまして、佐瀬稔氏が『金属バット殺人事件』でその背景を掘り下げていました。原文から引用したかったのですが見つからないのでうろ覚えで書きますと、佐瀬氏が遠因として注目していたのは、両親がモノ不足の中で少年少女期を送ってきた昭和ヒトケタ世代だけに、子供の幸せとは物質的に満たされていることだという先入見が強く働いていたのではないか、という点でした。つまり、子供に物質的な飢餓感を与えないことを第一として育てられた結果、子供の世代はストレスに対する耐性が極度に弱くなっているのではないか、ということです。
この種の言説は「少年犯罪の凶悪化」の主張とその対策としての厳罰化を正当化する意見でよく用いられるので、取扱には注意すべきところもあるのですが、子に与える愛情の形式を社会的・歴史的文脈の中で捉えていくという点では、今でも注目すべきところはあるのではないかと思います。
別のブログからの孫引きで。
先の東アジアの話をこの文脈に重ねるならば、安定的(言い換えれば停滞的)に経済生活のレベルが推移している地域に比べて、急速なテンポで経済的な豊かさを獲得していった(獲得しつつある)社会においては、心理的幸福を測定する上でも「より豊かになること」という尺度が支配的になるのかもしれないなぁ、などということを思ったりもしました。愛情の代わりにモノやカネを与えているのではなく、モノやカネこそが愛情の尺度なのであって、そのアンチテーゼとして「ココロの時代」などという言説が一時的に流行ったとしても、基本的な傾向性としては短期間にさして大きく変化するものではないように思います(一時期の宮台真司氏あたりなら「意味」に対置された「強度」としてこれを語ったかもしれません)。
イタリアに住んでしばらくして、「ファッションの国と言われるにしては、道を歩いている人におしゃれな人が少ない」ということに気がつきました。(略)
……日本では、ごくふつうの女子高生や女子大生が、あたりまえのように高級ブランドを身に付けて歩いています。銀座や赤坂であれば、ほとんど全員と言って良いでしょう。しかしイタリアの女子学生は、どちらかといえば質素な格好をしています。具体例を挙げると、日本だと部活の遠征で着るようなジャージで歩いている若者が、けっこうな数いるのです。
(略)しかし彼らの両親たちは、いかにも高そうな服を着ています。「自分たちで稼いだお金は、まず自分たちに使う」ことが当然だからです。
イタリアと日本では、家族間の愛情の基準に若干の違いがあります。日本では(南イタリアもけっこう似ていますが)、親がいかに自分たちの贅沢を切り詰めて、子供に投資しているかが愛情のバロメーターだとみなされています。しかしイタリアでは、少なくとも日常的に与える金額の多寡では無さそうです。一方で、私が「18歳から一人暮らし」だと話すと、「おまえの親はおまえを愛していないのか!」と、トンチンカンな驚きの声が返ってきて、成人から一人暮らしがやはり当たり前であるアメリカ人と私とで目をぱちくりしたこともあります。どちらが良い悪いの話しではなく、基準が違うというだけです。
それでも、イタリアの中高生が「はやく大人になりたい」と言っているのを聞くと、自分で稼ぐまでは自由になるお金がほとんどないという状況も、「大人になる」ことをポジティヴなものと思わせるためには、なるほど大いに貢献しているのだな、と考えさせられるのです。
(池上英洋の第弐研究室 2008/2/18「イタリアの「オシャレではない」子供たち」)
親が我慢して、子供に贅沢をさせるというのは日本的というよりは東アジア的だと思う。中国、韓国、東南アジアの方々もこのような風潮を感じる。なので、東アジアの国々でおしゃれな女子大学生、女子高校生などが増えてきたならば、経済的には日本をキャッチアップする寸前と考えてよいのかもしれない。
(発声練習 2008/2/19「おしゃれさと経済力」)
ふむふむ、そういう要因もあるのか。
私は私で、全然別のことを思い出していました。
1980年に川崎で浪人生が両親を金属バットで殴り殺すという事件がありまして、佐瀬稔氏が『金属バット殺人事件』でその背景を掘り下げていました。原文から引用したかったのですが見つからないのでうろ覚えで書きますと、佐瀬氏が遠因として注目していたのは、両親がモノ不足の中で少年少女期を送ってきた昭和ヒトケタ世代だけに、子供の幸せとは物質的に満たされていることだという先入見が強く働いていたのではないか、という点でした。つまり、子供に物質的な飢餓感を与えないことを第一として育てられた結果、子供の世代はストレスに対する耐性が極度に弱くなっているのではないか、ということです。
この種の言説は「少年犯罪の凶悪化」の主張とその対策としての厳罰化を正当化する意見でよく用いられるので、取扱には注意すべきところもあるのですが、子に与える愛情の形式を社会的・歴史的文脈の中で捉えていくという点では、今でも注目すべきところはあるのではないかと思います。
別のブログからの孫引きで。
一九八〇年に川崎市のありふれたサラリーマン家庭で浪人中の受験生が両親を金属バットで殴り殺した事件の内実と背景を探ったノンフィクション作家・佐瀬稔氏(一九三二年生まれ)の『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)。佐瀬氏は、「必死に働けば明日は少しでもよくなる、と信じて走り続け」た戦前生まれの親として、この事件を他人事と思えずに取材したという。そして、こう述懐する。
<家庭内暴力という言葉が日本で使われるようになったのは、ここ十年ほどの間(注、この本が書かれた八四年の時点で)のことだ。
この「十年」という時間には、思えば重大な意味がある。すなわち、幼いころ、一本の色鉛筆、一足のズック靴に強烈な欠乏感を持って育った世代が、成長して家庭を作り、どうやら食える収入にありつき、子を持ち、そしてその子にモノと心をふんだんに与えた、そうやって育てられた子供たちが、その気になれば親に暴力を振るえるという年齢に達した、それが今からほぼ「十年前」に始まった、そういうことである。
この子供の問題行動でしばしば大人たちを困惑させるのは、動機ないし原因と現実の行動の間に、因果関係を発見するのがともすると難しい、ということだ。動機や原因が明瞭なら、それを絶てばよい。そうはいかないからこそ、問題児を抱えた家族は終わりのない地獄の中でのたうち回り、一家心中まで思いつめるのだ>
(文-体・読本 2004/10/29「今の子供はそれほどもろいのですよ」)
先の東アジアの話をこの文脈に重ねるならば、安定的(言い換えれば停滞的)に経済生活のレベルが推移している地域に比べて、急速なテンポで経済的な豊かさを獲得していった(獲得しつつある)社会においては、心理的幸福を測定する上でも「より豊かになること」という尺度が支配的になるのかもしれないなぁ、などということを思ったりもしました。愛情の代わりにモノやカネを与えているのではなく、モノやカネこそが愛情の尺度なのであって、そのアンチテーゼとして「ココロの時代」などという言説が一時的に流行ったとしても、基本的な傾向性としては短期間にさして大きく変化するものではないように思います(一時期の宮台真司氏あたりなら「意味」に対置された「強度」としてこれを語ったかもしれません)。
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