外国語教育 (2008年02月20日)
学習指導要領の改訂で、小学校のカリキュラムに英語の必修化が含まれることになった件について。
うーん、言いたいことはわかるんですが、ちょっと公教育(それも初等義務教育)に夢見すぎじゃないかなー。近代型の公教育ってもともと「特権的な回路」の生成のためにあるわけじゃなくて、全国民に広く浅く教養を与えることによって国家建設の基盤を作るというのが19世紀(でいいのかな)以来の一貫した目的ですし。それを「檻の中に閉じ込める」と表現するのは簡単ですが、それを言ったら小学校の教育なんてみんな「檻の中に閉じ込める」ものばかりになってしまいます。
もちろん、その基盤が後々になって、『「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つ』へと通じていく可能性は常にあるわけですが、義務教育段階での教育は、あくまでもそのきっかけとしての「はじめの一歩」に過ぎないわけで。その点で言えば、英語に限らず算数だって理科だってその他のどんな教科だって、「檻から出る」ための武器としてはまだまだ力不足ですし、逆にどの教科が将来の子供にとって「檻から出る」武器になるか、小学校の段階ではまだまだ判ったものではありません。案外、理科や算数のように、記号の操作の仕方さえ知っていれば万国大抵のところで通用する“ユニバーサル言語”のほうが、「檻から出る」ための強力な武器になるかもしれませんし。
小学校での英語の必修化が適切かどうかという具体論については別途議論の必要があるでしょうが、広く浅く将来の「きっかけ作り」の芽を養う方策の一環として、こういう方向性もそれはそれでアリじゃないかなあ、という気はします。
この意見にも決して反対ではないんですが、これだって別に実用的なスキル要請が目的じゃなくて、長い目で見れば将来に向けての「きっかけ作り」だと思うんですよね。一部の進学校とかは別として、平均的に見れば、小学校レベルの教育もこれと同じようなものではないでしょうか。基本的にどの教科も実用的なスキル云々より、むしろその前段階の基盤作りというか「きっかけ作り」みたいなレベルの話だと思いますし(だからこそ大事だとも言えますが)。
「外国語教育→国際化→グローバル化」という生々しい政治的イメージが、公教育としての外国語教育にはしばしばつきまとうものかもしれませんし、上記記事での英語必修化批判が大学やビジネスでの“英語屋”批判の文脈につながっているのもそのためだと思いますが、まあもうちょっと冷静になりましょうよ。
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。
(内田樹の研究室 2008/2/17「小学生に英語を必修させる必要があるのか?」)
うーん、言いたいことはわかるんですが、ちょっと公教育(それも初等義務教育)に夢見すぎじゃないかなー。近代型の公教育ってもともと「特権的な回路」の生成のためにあるわけじゃなくて、全国民に広く浅く教養を与えることによって国家建設の基盤を作るというのが19世紀(でいいのかな)以来の一貫した目的ですし。それを「檻の中に閉じ込める」と表現するのは簡単ですが、それを言ったら小学校の教育なんてみんな「檻の中に閉じ込める」ものばかりになってしまいます。
もちろん、その基盤が後々になって、『「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つ』へと通じていく可能性は常にあるわけですが、義務教育段階での教育は、あくまでもそのきっかけとしての「はじめの一歩」に過ぎないわけで。その点で言えば、英語に限らず算数だって理科だってその他のどんな教科だって、「檻から出る」ための武器としてはまだまだ力不足ですし、逆にどの教科が将来の子供にとって「檻から出る」武器になるか、小学校の段階ではまだまだ判ったものではありません。案外、理科や算数のように、記号の操作の仕方さえ知っていれば万国大抵のところで通用する“ユニバーサル言語”のほうが、「檻から出る」ための強力な武器になるかもしれませんし。
小学校での英語の必修化が適切かどうかという具体論については別途議論の必要があるでしょうが、広く浅く将来の「きっかけ作り」の芽を養う方策の一環として、こういう方向性もそれはそれでアリじゃないかなあ、という気はします。
外国語なんて大きくなってからで十分である。
子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。
この意見にも決して反対ではないんですが、これだって別に実用的なスキル要請が目的じゃなくて、長い目で見れば将来に向けての「きっかけ作り」だと思うんですよね。一部の進学校とかは別として、平均的に見れば、小学校レベルの教育もこれと同じようなものではないでしょうか。基本的にどの教科も実用的なスキル云々より、むしろその前段階の基盤作りというか「きっかけ作り」みたいなレベルの話だと思いますし(だからこそ大事だとも言えますが)。
「外国語教育→国際化→グローバル化」という生々しい政治的イメージが、公教育としての外国語教育にはしばしばつきまとうものかもしれませんし、上記記事での英語必修化批判が大学やビジネスでの“英語屋”批判の文脈につながっているのもそのためだと思いますが、まあもうちょっと冷静になりましょうよ。
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