電撃かたつむり通信(仮)

人生リハビリ日記。改題タイトル考案中。

……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に本来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。

(廣重徹『科学の社会史』)

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手段としての芸術 (2008年02月21日)

 ネグリ『芸術とマルチチュード』と村上隆『芸術起業論』の比較対照、というより前者による後者の批判の試み。
たしかに本をめくっていくと「ビジネスセンス、アート・マネージメント、クライアント、スポンサード、オークションハウス、ルール、アイデンティティ、コンプレックス…」という、これまで自分が読んできた芸術論の本ではあまり目にしたことのないビジネス用語やサクセスストーリーが目についた。なるほど、そこで語られていることは、いま・そこにある「帝国」の体制とそのニーズに見事に応えているにちがいない。それも「同時代芸術」である現代アートの役割のひとつなのかもしれない。はたして、それがよいかどうかはひとまず措いといて、ただひとつはっきり云えることは、つまり、それは「帝国のアート」だということで、仮にそうだとすれば、やはりそれは受け入れることができないし、それを「拒否」する側につきたいといつも思っている。(略)問題は、どちらがただしいとか、まちがってるとかではなく、どちらが来たるべき次の未来となるかで、これは賭けてみるよりほかない。

イルコモンズのふた。 2008/2/15『「マルチチュードの芸術論」と「帝国の芸術論」』

 なんとなく「芸術のための芸術」(l'Art pour l'Art……でよかったんだっけ?)なんて言葉を連想したりもしますが、むしろ芸術が外的な何かのための手段として捉えられた時の、その「何か」の相違であるように思います。
 ここで「帝国のアート」と表現されているのは、経済社会の合理的秩序に適応する手段として芸術が用いられているケースを指しているのでしょう。『それも「同時代芸術」である現代アートの役割のひとつなのかもしれない』という一節もありますが、考えようによっては、時代の感性が一般的に依拠している判断基準を如実に反映しているという点で、これもまた「時代を写し取ったアート」と解釈することも不可能ではありません。『動物化するポストモダン』の頃の東浩紀氏は、この観点から村上隆氏の仕事を評価していたようです(後に評価を変えたようですが)。

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