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知識を使う/知識に使われる (2008年02月21日)
私の勤め先でも、最近はJ-SOX法/企業内部統制がどうとか情報セキュリティマネジメント規格がどうとかといった話題が飛び交っていて、意志決定や業務遂行のプロセスをどう変革するか、みたいな(日経BP社のビジネス誌あたりでよく見かける)話題も珍しいものではなくなりました。
プロセスを変えるのは別に構わないのですが、こういった話題を見ていて(特に内部統制関連で)時々気になるのが、プロセスの客観的な明示化などの目標追求が、しばしば既存の標準モデルにいかに近づけるかという方向だけで検討される傾向が生じることです。標準モデルのプロセスと既存のプロセスとが異なっている時に、「それは既存のプロセスが間違っているのだ」と安易に結論付けてしまうと、過去の経緯の積み重ねによって経験知として定着してきたノウハウが持つ、理論的標準モデルとはまた異なった形で構成されてきたローカルな合理性が、あっさりと損なわれてしまう恐れがあるのではないかと思うのです。ローカルな合理性がいかなる場合においても常に妥当であるなどという暴論をいうつもりはありませんが、グローバルな理論的合理性がローカルな経験的合理性よりも常に「より正しい」ものであって、後者はもっぱら前者を見習ってより前者に近づくよう努力すべきである、という価値基準の前提をそのまま無反省に受容するようなキャッチアップの姿勢が、今日的な業務変革においてもやはり支配的な形で見られるケースが多いように私には見受けられます。
このような姿勢の背景には、内部統制やセキュリティマネジメントなどの改革傾向が、法=強制的規範としての性格を強く帯びているという要因ももちろん働いているでしょうが、外的な標準モデルを「目安」ではなく「正しさの規範的基準」として捉えてしまうと、結果的に(IT系コンサル屋以外は)誰も幸せにならない変化で終わってしまうのではないでしょうか。
以下の引用はこの話と直接の関係はないのですが、何となく関連しているように思えました。
これに似た話として、科学的啓蒙を「科学に市民を近づける」のではなく「市民に科学を近づける」ものとして捉えなおす視点もあるようです。
この後段で、赤瀬川原平氏(私は「超芸術トマソン」くらいしか知らないのですが)の『わかってきました。科学の急所』からの引用が紹介されています。
知識やツールや標準モデルに「使われる」のではなく、そういったものを「使う」ような人間でありたいと思っていますが、いったいどうしたらそれが可能なのかについて、いろいろ考えたりすることがあります。
プロセスを変えるのは別に構わないのですが、こういった話題を見ていて(特に内部統制関連で)時々気になるのが、プロセスの客観的な明示化などの目標追求が、しばしば既存の標準モデルにいかに近づけるかという方向だけで検討される傾向が生じることです。標準モデルのプロセスと既存のプロセスとが異なっている時に、「それは既存のプロセスが間違っているのだ」と安易に結論付けてしまうと、過去の経緯の積み重ねによって経験知として定着してきたノウハウが持つ、理論的標準モデルとはまた異なった形で構成されてきたローカルな合理性が、あっさりと損なわれてしまう恐れがあるのではないかと思うのです。ローカルな合理性がいかなる場合においても常に妥当であるなどという暴論をいうつもりはありませんが、グローバルな理論的合理性がローカルな経験的合理性よりも常に「より正しい」ものであって、後者はもっぱら前者を見習ってより前者に近づくよう努力すべきである、という価値基準の前提をそのまま無反省に受容するようなキャッチアップの姿勢が、今日的な業務変革においてもやはり支配的な形で見られるケースが多いように私には見受けられます。
このような姿勢の背景には、内部統制やセキュリティマネジメントなどの改革傾向が、法=強制的規範としての性格を強く帯びているという要因ももちろん働いているでしょうが、外的な標準モデルを「目安」ではなく「正しさの規範的基準」として捉えてしまうと、結果的に(IT系コンサル屋以外は)誰も幸せにならない変化で終わってしまうのではないでしょうか。
以下の引用はこの話と直接の関係はないのですが、何となく関連しているように思えました。
私の興味と言いますと・・・、例えば会社だとか、地域社会だとか、とにかくいろんな意識・意見を持った人々が集まっている集団(むろん、意見が皆同じなどという集団があったとしたらそれはそれで怖いのですが(笑))の合意形成を、ITを利用して何とかしたいというものです。
もちろん、ITに出来る事なんて限られています。(略)
……CaPAでは、時々フィールドワークのなかで、いろいろな地域社会の古くからの合意形成のあり方を調査したりしますが、昔の人のほうがよほど話し合いをしていた感じがします。(略)
私が、例えばある地域社会でITの仕組みを作るときには、まず、そこの図書館に行って歴史を調べます。また、何人かの人に話を伺ったりすると、その地域でどのような問題が発生していてそれがどのように解決されてきたのか、それにどのような合意形成が必要だったのか、というのが何となくわかります。で、そのあとに、ITの仕組みを作るのに協力してくれるメンバーをその地域から探し出して、解決するべき具体的な問題を発掘して、それに合ったITのやり方を考え出して、必要があればリアルな仕組みも作って・・・というやり方をします。(略)
……皆さん、自分の住んでいる地域の事しか知らないでしょうから意識はあまり無いだろうけど、日本の国の合意形成の文化って、地域ごとに多種多様で、本当に面白いですよ。本当は、文化遺産と言ってもいいくらい(それも絶滅寸前のね)。
(合意形成マネジメント協会 2007/7/7 リレーエッセイNo.2)
これに似た話として、科学的啓蒙を「科学に市民を近づける」のではなく「市民に科学を近づける」ものとして捉えなおす視点もあるようです。
携帯電話にすでにデジカメの機能があって、使おうが使うまいがそれは持ち主の勝手であるように、カフェにはサイエンスの話ができる機能があって、それを使うだけなんだと気が付いた瞬間、一人で笑ってしまいました。
私はどうもサイエンスの側の都合からばかり考えていたようです。そして、サイエンスの延長に市民がいて、いつか届く日を待ちわびていたとも言えるかも。あっさりと会場を見つけて以来、そうじゃなかったんだなーと私の考え方はひっくり返り、日常生活にプラスサイエンスというよりも、日常生活のどこかをひょいとサイエンスにしちゃうアイデアを考えるようになりました。
(科学技術コミュニケーターってなんだろう 2008/2/11「わかってきました。サイエンスコミュニケーションの急所」)
この後段で、赤瀬川原平氏(私は「超芸術トマソン」くらいしか知らないのですが)の『わかってきました。科学の急所』からの引用が紹介されています。
文中にある「・・・科学は果たして人間に追いつけるのか。」というフレーズに、私の起点を修正しなくちゃと反省したのでした。
◆ 「はじめに」から抜粋文 ◆
科学のことを知りたくて科学書を読もうとするとき、こちらの直感の分野に届くような形で書いてくれないものかといつも思う。言葉、文章というものは、いくら正しいことが書かれていても、通じなければ価値がなくなる。これが外国語なら当然翻訳するわけで、数学も1つの言葉であるならば、やはりふつうの言葉に翻訳できぬはずはないと、数学世界をいまだ知らない理科系ファンのぼくは思うのである。 (赤瀬川原平)
(「わかってきました。サイエンスコミュニケーションの急所」)
知識やツールや標準モデルに「使われる」のではなく、そういったものを「使う」ような人間でありたいと思っていますが、いったいどうしたらそれが可能なのかについて、いろいろ考えたりすることがあります。
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