terra incognita

人生リハビリ日記。

……最も均質で「つつしみ」の気持ちを欠いて計画された現代の都市開発の空間ですら名称がつけられ、明瞭な中心と周辺地区とに組織立てられている。そして、まったくの郊外に住む人々ですら、そこに根をおろし、住んでいる場所へのかかわりを育んでいる(…)。そのような経験は、ハイデガーの描くシュヴァルツヴァルトの農民が自らの住まいについて経験するものとは明らかに同じではないし(…)、その家屋のつくりに現れたものと同じ濃密さと奥深さを持つこともできない。なぜなら、郊外の家々はカタログの中のデザインを用いた請負い業者たちの仕事によって建てられているのだから。しかし同時に、私たちはそれをより劣った経験であると安易に判断することはできない。なぜならそれは、人間の意志や希望や畏れを含むからである。幸福や絶望といった経験に関しては、私たちはそれを測る尺度を持ち合わせていないのだ(…)。

(エドワード・レルフ『場所の現象学』)

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近代人の「幸福な死」 (2009年03月17日)

 私はこの一件で初めて、「不気味の谷」という表現があることを知りました。

 独立行政法人産業技術総合研究所「人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功」2009/3/16発表

 このロボ子さんの挙動についてはネット上でも動画が公開されていますが、特に正面に向かって歩いてくる映像は、なんだか中途半端に人間らしく、中途半端に人間らしくない感じで、PerfumeやAira Mitsukiの“ロボットダンス”がいかに人間味溢れるものであるかを思い知らされます(そっちかよ)。
 素人考えで思うに、恐らく「不気味の谷」という感覚は、観察対象が果たして「人間」と「機械」のどちらにカテゴライズされるのかを、理性(悟性?)では判別できても直観がその判別をはっきり裏打ちしてくれないところに発しているのではないかと想像します。仲間かそうでないか、同属かそうでないか、人間か非人間か、といった自他の識別が全ての面においてはっきりしているならこちらも安心できるのですが、上記のロボ子さんの場合、概念としては間違いなくロボット(境界線の向こう側)のはずなのに、見た目や動きが中途半端に人間を模しているために、そうした「自/他」「人間/非人間」の識別の境界線を侵犯して今まさにこちらに侵入しようとしているように見え、見る側に不安を与えることがあるのではないでしょうか(*01)。もちろん、こうした不安感の半分は感覚的な捉え方に立脚していますから、人によってはロボ子さんがまだ「不気味の谷」の彼岸にいると思う人もいれば、もう「谷」を越えて人間の側にいると思う人もいるかもしれません。

 これに関連して、以前に「botを人間と間違えた人」の話題がありました。

 POLAR BEAR BLOG 2009/3/11「自分が「bot じゃない!」と信じれば、相手は人間になるんじゃないかという話。」

 前に紹介した「チューリング・テスト」や「中国語の部屋」の話のように、人間がある観察対象について、それが自分と同じ人間であるか否かを判断する根拠は、論理的に突き詰めれば、対象が観察者にとって“人間らしく”捉えられるかどうか、という一点にしかないと言えます。
 少々話を広げるならば、これは、認識論的立脚点としての主観一如から世界認識をスタートさせるという論理的手続きを採用した近代的な世界の見方が、いつかは辿り着く運命にあった境地であると言えるかもしれません。何故なら、ある観察対象を「主体−客体」関係の中で捉えた上で、観察者の主観的視点から見て一定の機能的要件を満たしているかどうかという観点から客体を評価するなら(評価軸、つまり機能的要件自体は外的=客観的なものの援用であっても構いません)、人間と、それと全く同等の機能を行使するロボットとの間には、何の違いも認められないからです。
 今ここにいる《この私》が消滅して、その一瞬の後に、容貌も体型も癖も趣味も、記憶の一片に至るまで《この私》と寸分変わらぬもう一人の《あの私》が出現したならば、周囲の人間は誰もがみな、《この私》と《あの私》が同一人物であると信じて疑わないでしょう。(*02)
 ましてや、自分にとっての機能的要件を充足するかどうかだけが問題とされる局面においては(ここでの機能的要件には「感性的に違和を感じないかどうか」といったものも含まれていると考えてください)、その機能的要件を完全に満たすロボットは、同じように機能的要件を満たす人間と論理的には同等であり得ますし、同等に扱ってはならないとする積極的な理由もまたありません。

 理性による人間の自己律法を目指した近代の理念は、時に重大な弊害をもたらすこともありましたが、概ね人類の自由と解放に向けて大きく寄与したと言っていいでしょう。ところが、理性による統治は世界の概念的な把握を前提としているため、統治の担い手に関する理解が“概念レベルで”損なわれない限り、近代的な人間社会は、その担い手が人間自身でなくとも実は成立し得るのです。
 マルクスの資本主義批判やチャップリンの『モダン・タイムズ』においては、資本や機械の奴隷になって貧困や苦痛を味わうという形で人間の利益が“損なわれていた”ので、近代的な理念の内側から近代のあり方を批判することが可能でした。でも、人間の利益をいっさい損なうことなく、人間に要求される機能的要件を全て満たすことの出来るテクノロジーが一般化したならば、そのテクノロジーは人間がいてもいなくても社会の担い手として機能し続けるでしょう。しかもテクノロジーは、人間に見られる気紛れな偶有性をほとんど持たず(故障や磨耗や経年劣化はするでしょうが)、多かれ少なかれ普遍的で法則的な秩序をこの地上に樹立することを目指す近代の理念に、人間自身よりもずっと適合しています。

 今はまだ不器用なロボ子さんを作るので精一杯ですが、やがて人間と寸分変わらぬロボットが、女性型だけでなく男性型や両性型(?)も含めて出現し、人間の利益を一切損なうことなしに人々の生活を完全に充足することを可能とするようになったなら、いつの日か人類は、自らの打ち立てた永遠の理想が具現化したことに心満たされて、文明と社会の担い手を安心してロボットに任せながら自らは「幸福な死」を迎えるようになるのかもしれません。
 ……そんなSF的な空想を思い巡らせてしまうのは、恐らくロボ子さんがまだ中途半端な境界侵犯的存在である点に、私がそこはかとない不安感を抱いたからなのでしょう。ロボットがもっと自然に人間の挙動を模写できるようになって、「不気味の谷」の此岸に完全にその存在を移行させたなら、きっと私たちはロボットがもたらす「緩やかで幸福な死」の福音をごく当たり前のことと見なすようになるのではないか、という気がします。


スパイダーマン! (2009年03月17日)

 先日より米マーベル社のサイト上で、1978年に放送された日本版『スパイダーマン』が順次無料配信され始めていることが話題になっていますが、まるでタイミングを合わせたかのようにこんなニュースが。
20年間車イス生活をしていた男性が毒グモにかまれて歩けるようになる(Gigazine 2009/3/16)

20年間下半身を動かすことができず車イス生活を送っていた男性が、毒グモにかまれたことがきっかけで歩くことができるようになったそうです。なぜ毒グモにかまれたことによって回復したのかは明らかにされていませんが、まさに奇跡的な出来事だったようです。
……
アメリカ・カリフォルニア州のマンティーカという街に住むデービッドさんは、21年前にバイク事故を起こして生死の境を行き来し何とか命は助かったものの、下半身がマヒした状態で動かすことができなくなり、その後20年間車イス生活を送っていたそうです。
ある日デービッドさんは毒グモにかまれたために病院へ運び込まれ、その時に看護士がデービッドさんの足にけいれんが起きていることに気が付いたため検査を行ってみると、デービッドさんの足の神経が回復していることが分かったそうです。デービッドさんもクモにかまれたとき、マヒした足に痛みなどを感じたとのこと。
毒グモにかまれた5日後にデービッドさんは歩くことができるようになり、今では病院の外にも出られるようになっているとのこと。担当した医者も「奇跡としか言いようがない」とコメントしており、ビックリしているようです。

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090316_paraplegic_leg_cure_spider_bite/

 毒の成分がたまたま麻痺していた神経を活性化するよう働きかけたのかもしれませんが、もしこの時の回復の仕組みが解析され、療法として確立したなら……次はレオパルドンを作らなくては!(違)

リンゴはいかが? (2009年03月16日)

 ここのところYahoo!ブログで遊んでいたりします。今までにいろんなブログサービスを使ってきましたが、まだYahoo!ブログは本格的に使ったことが無いので、どんなものかひとつ本腰を入れて使い勝手を見てやろうかと思いまして。
 今まで使った中では、はてなダイアリーとここのFC2ブログが特に私と相性が良く、逆にYahoo!ブログは以前にもちょっと試してみたことがあるのですが、正直に言えばいちばん使い難いものでした。一見普通のブログなんですが、機能やデザインの基本的コンセプトが他のブログサービスとまるっきり異なり、ブログというよりはSNSに近い特性を持っているのです。
 でも私にとって使い難いということは、逆に言えば、私の知らなかったような世界の見え方や物の捉え方に対する視野が開ける可能性を含んでいるのかもしれないと思い直して、とりあえず使っています。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 で、あんまりこちらを放り出すのもちょっと気が引けるので(別に完全に引っ越したつもりでもないので)、こちらでもちょっと気になった話題をクリップ。
青森リンゴ 大量廃棄の危機 霜被害で加工処理追いつかず(Yahoo!/毎日 2009/3/13)

 霜とひょうによる過去最悪の被害を受けた08年産青森リンゴ。見た目の悪さなどから膨大な量が加工用に回され、処理しきれずに廃棄される危機に陥っている。県内分の約4割を生産する弘前市では加工業者が仕入れを制限。2月末現在、農家の在庫は約33万箱(1箱20キロ)に膨れ上がった。さらに世界的な不況が出荷調整の追い打ちをかけ、生産者は「常温保存のリンゴは1〜2週間で腐り始める。捨てざるを得ない」と悲鳴を上げている。
 被害は昨年4〜9月にあった。暖冬で早く開花したことで霜にさらされ、9月は直径約5〜7ミリのひょうが降り、収穫間際のリンゴが傷付けられた。県のまとめでは、被害面積約1万600ヘクタール、損失額は約103億円に上った。
 大量の売れ残りを見込んだ関係団体は昨夏、味は変わらないとPRし、傷つきリンゴのジュースを開発。しかし、傷のないリンゴも需要が落ち込み、値段が前年の約8割にダウン。価格下落を防ぐため、生食リンゴの出荷を制限せざるを得なくなり、市場に回らない分がさらに加工用に回された。
 契約農協からのリンゴすべてを受け入れ、ジュースなどにしている弘前市の県農村工業農協連合会では、ジュース用リンゴの在庫が夏に平年の約2.4倍になる見込み。1日の処理量を1.5倍に上げても、すべてをさばくには例年より約2カ月長くかかるという。100箱の在庫を抱える農家の男性(52)は「1箱の買値が50円とも聞く。完全な値崩れで捨てるしかない」と嘆く。県りんご協会(弘前市)の福士春男会長は「体力のない農家はもたない」と破綻(はたん)の連鎖を危惧(きぐ)している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090313-00000003-maip-soci

 単なる自然災害だけでなく、傷つきリンゴの通常の流通ルートにも不況で売れない生食リンゴが流れ込んできたため、余計に販路が塞がってしまったというダブルパンチ。
 こうした傷つきリンゴは「訳ありリンゴ」として、産直宅配でも通常より安い値段で買えたりします。「青森 訳あり りんご」で検索するといろんなリンゴ農園などの通販ページも出てきますので(Google検索結果Yahoo検索結果)、「せっかくだから、俺はこの赤の訳ありを選ぶぜ!」などと思った方はいかがでしょうか?


 果物つながりでもう一つ、私の地元に近いところの話題。
田舎暮らしいかが?ミカン再生目指し新事業/小田原(カナロコ 2009/3/16)

 耕作地の荒廃が進む小田原の特産品「ミカン」の再生を目指す二つの新規事業が、二〇〇九年度から始まる。都市住民に耕作放棄地でミカンの手入れをしてもらおうというアイデアで、キーワードは「滞在」と「復元」。新種ミカン「湘南ゴールド」の人気も上向きで、”田舎暮らし熱”が高まる都市住民に「果樹栽培」という選択肢を提案する試みだ。
(略)
 ミカン農家が宿泊施設のある「滞在型市民果樹園」を設け、百平方メートル〜三百平方メートル程度の区画に畑も併設して都市住民を呼び込む仕組みを想定。週末などに宿泊施設に滞在し、ミカンの手入れや野菜の栽培などを楽しんでもらおうという狙いだ。
 ただ、ミカン園は山の急斜面に小規模な面積で栽培されている例が多い。このため、水道やトイレ、電気などを完備した宿泊施設の建設に加え、農家の資金調達面の支援など実現への課題も多い。市と県は約一年をかけて検討し、同事業の具体化について、結論を出す方針だ。
 一方、耕作放棄地を都市住民の手で復元する取り組みが、県の「オレンジホームファーマー事業」だ。〇八年度にモニター研修を行っており、本格実施へ〇九年度当初予算案に約五百八十九万円を計上した。
 対象は、小田原市内にある二カ所のミカン園(総面積三千三百平方メートル)。県が耕作放棄地を整地した後、都市住民がミカンやレモンなどの苗木を植えて育て、収穫する。この間の三年間は研修期間で、専門家による講座と実地研修を重ね、ミカン栽培の技術が習得できる流れとなっている。
(略)
 レジャー的な要素が色濃い「滞在型市民果樹園」と、プロ養成をもくろむ「オレンジホームファーマー」の二事業。いずれにしても「荒廃ミカン園に手が入れば隣接するミカン園の日照も回復し、実りはより豊かになる。都市住民と地元のミカン農家との交流も生まれ、活性化に貢献できるのではないか」と、県の担当者は話している。

http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903274/

「趣味コース」と「本業コース」の二種類を取り揃えてみたという感じでしょうか。しかし「趣味コース」の方で都会型ライフスタイルに合わせて「水道やトイレ、電気などを完備した宿泊施設の建設」を検討しているという話を聞くと、何とも複雑な気分になります。人集めが優先する事業だと、「不便を楽しむ」スタイルというのはなかなか取り入れ難いんでしょうかねー。

富士見坂 (2009年02月01日)

……おれが上京したころには、都心の大部分の場所からは、その景色はなくなっていた。おれにとっては、ときたま高いビルや郊外を走る電車のなかから見える富士山は幻のように瞬間的なものであり、富士山は「観光景」「行楽景」のなかに存在した。
だけど、そういった東京のコンニチの表層をペッとはがして見ると、その下には富士山を日常的な生活景と見られる東京だか江戸だか武蔵だかという場所が存在した。
富士山を日常の生活の中の景色として共有していた人びとと、そうではないコンニチの人たちと、たぶん、ほかのものについても「共有」や「共に生きる生活」の感覚がちがうのではないだろうかと、ここで富士山を見ながら思う。いま、たとえば、いま銭湯につかりながら富士山の絵を見るひとには、共に富士山を見て暮らす場所に生きているという感覚はないだろう。だけど、むかしのひとには、あったにちがいない。

そういうことが「場所の力」には関係する。

ザ大衆食つまみぐい 2009/1/17 生活景としての富士山、あんど「場所の力」。

 TBSラジオの「嶌信彦のエネルギッシュ・トーク」(Webサイト上でも最新一週分を聴くことができます)に作家の森まゆみさんがゲストで登場していた時にも、やはり富士山の話が出ていました。森さんは四半世紀前から地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を刊行し続けており(2009年春で終刊予定)、「場所と共に生きる」ことを問題意識として持ち続けている方のようです(たぶん)。
 昔は我が家から富士山もちゃんと見えたけどね。

 そう、富士山が見えなくなった。私は「富士山を見る権利」と言っているんですけれども(笑)、夕日が見えなくなったとか、富士山が見えなくなったというのをすごくがっかりしているお年寄りが多いんですよ。

安田 一階とか二階の位置から見えたわけですよね。[今は]高いタワーに上って「富士山が見えます」というのが東京の観光スポットになってるじゃないですか。

 昔は二階建ての家の二階の座敷から十分見えましたね。

 なんせ「富士見台」なんていう町の名前がいくつあるよ。

 「富士見坂」って言うのが23区で19あるんですよ。その中で唯一、地べたから富士山が見える「富士見坂」が日暮里にあったんですけど、もう過去形になっちゃって。私、「富士山を見る権利」を主張して、ここにビルが建たないように気を付けていたんですけど、遂に2キロ先の本郷通りにペンシルビルが出来て、左肩が隠れてしまうことになって。
その時もずいぶんいろんな運動をしたんですけど……空中権を買い取るとか、条例に「遠くの山並みというのも景観としては大事である」ということを織り込んだりとか。で、80歳くらいの町会長が会長さんをやってらしたんだけど、「ビルはいつまで建つものでもない。50年後にあのビルが壊された時にはビルが建たないように今から頑張りましょう」っておっしゃったんですよ。

 すごいね。

 すごいでしょ。50年後って私も生きてないんだけど、その方もいらっしゃらないと思うけど、そういうことをおっしゃるというのはすごいなと思いました。

 そういう懐の広さとか余裕とか、そういうものが無いと駄目なのかね。結局みんな目先目先の利益だとか目先目先の景観ということになってくるけれども、50年後だってこの土地や建物があるかどうかわかんないもんね。

(「嶌信彦のエネルギッシュ・トーク」2009年1月18日放送分より ※細かい言い回しは文章表現としての読みやすさを考慮して変えてあります)

【misc】1月の諸々 (2009年01月31日)

 特にこれといった理由は無いのですが、1月はこのブログの更新頻度がめっきり減っておりました。もともと長文スキー(読むのも書くのも)な私でも、やっぱりそういう時期というのは訪れたりするのです。

 とりあえず、最近気になった話題をいろいろピックアップしてメモ(私自身の備忘録を含む、というよりそちらの意義のほうがメインかも)。

●ガザ攻撃とYouTube
 昨年末から最近まで続けられたイスラエルのガザ攻撃において、イスラエル軍当局が自軍のピンポイント攻撃などの様子を写した広報・宣伝用の動画をYouTube上で公開し始めたことがちょっとした話題になりました。
イスラエル軍、ガザ空爆の模様をユーチューブで公開(AFP-BB News 2008/12/31)

 イスラエル軍は29日、動画共有サイト「ユーチューブ(YouTube)」に専用チャンネルを立ち上げ、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)でイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)に対して行っている空爆などの模様を撮影した動画を公開している。
 イスラエル国防軍(IDF)の報道官は同日、「世界にわれわれのメッセージが届くように」ユーチューブ内にチャンネルを立ち上げたと発表した。
 このチャンネルには現在、2000人以上が登録しており、10本の動画が掲載されている。動画の中には視聴回数が2万回を超えるものもある。
 チャンネル内では、イスラエル空軍が、ロケット弾発射施設や武器庫、ハマスの政府施設、密輸用トンネルなどとされる目標物に空爆を行う様子を空中から撮影した白黒の動画も公開されている。
 また、ハマスの警備艇とされるボートが、イスラエル海軍の艦艇から発射されたロケット弾で破壊される動画もある。
 IDFの広報部局によると、このチャンネルに投稿された動画のうちいくつかは、ユーチューブ側に削除されたという。

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2553237/3642652

 恐らく1991年の湾岸戦争で米軍当局がピンポイント爆撃の映像をメディアに公表し、CNN等を経由して世界中に広めたことがヒントになっているのでしょう。公開された動画には、湾岸戦争時の米軍のプレスリリース映像(航空機のガンカメラで地上目標が爆破される様子を撮影したモノクロ映像)を彷彿させる映像もあります。
 一方で今回のガザ攻撃の場合には、インターネット上の動画サイトをメディアとして利用したことが目新しいトピックとなっています。YouTubeにせよニコニコ動画にせよ、この種の動画サイトは生まれた当初には投稿者・閲覧者ともにパーソナルユースを主としていましたが、最近は政治家の広報・選挙運動や大学の公開講座などでも用いられ(オバマ大統領が大統領選でインターネットを活用していたこともよく報じられていました)、遂には戦時中の軍の広報活動という最も情報統制・管理が厳しい分野までが、この世界に参入してきました。これもまた、インターネットというメディアの影響力がいかに巨大なものとなったかの傍証の一つであると言えるかもしれません。
 一方で、パレスチナ側の視点から見たガザ攻勢の状況についても、様々な人の発信情報がインターネット上で見られます。ブログなどを利用して既存のメディアでは手の届かないところを伝える戦争情報のリアルタイム発信は、既に2003年の米・イラク戦争やその後の展開においても数多く見られており、政府公表ではない一般市民からのガザに関する情報公開の状況は、基本的にはその延長線上にあると捉えていいでしょう。


●アゴラ

アゴラとは、古代ギリシャの都市にあった広場である。それは一般に信じられているような単なる市民の政治的言論の場ではなく、本来は職人が商品を交換する市場だった。ハンナ・アーレントはこう書いている:
職人の公共的な場所であるアゴラは、市民の集会所ではなく、職人が自分たちの生産物を陳列し交換することのできる市場であった。僭主たちは、市民が公的問題についていろいろ世話を焼いたり、非生産的な演説や政治活動に時間をつぶすのを改めようとしたが、そのような野心は挫折した。(『人間の条件』第4章22節)

世の中には、市場と社会を二分して前者が後者に敵対するものと考え、「市場原理主義」を指弾する人々が多い。昨今の経済危機で、そういう傾向は強まっているが、このような二分法は近代に特有のものであり、市場は歴史と同じぐらい古くから存在したのだ。

「アゴラ」開設にあたって

 アゴラを商品交換の市場として捉えるのであれば、別にアーレントを引き合いに出す必要はないと思います。
 アーレントが政治論で古代ギリシアをモデルにしたのは、討論(アゴーン)の側面の他にもう一つ、私的領域(オイコス)とは切り離されたところに自立して存在する公的領域(ポリス)のレイヤーの存在を強調するためでもあり、このようなアーレントの立論はしばしば貴族主義的であると評されることもあります。初期ハイエクのように大衆によるオートポイエティックな市場形成をこそ社会構築の根幹とすべきであると考えるのであれば(池田氏の意見はだいたいこのような観点を基盤としているように見受けられます)、ここでアーレントの名を援用するのはむしろ逆効果ではないかとも思うのですが。


●全体性の喪失
 レジデント初期研修用資料 2009/1/27「もうすぐ家が建たなくなる」

 知識の専門分化によって全体を見る視野が失われるという問題意識は、医療分野以外にも話を広げるならマックス・ウェーバーの大学論あたりにも見られます。恐らく過去には、トーマス・クーンが「科学者共同体」として論じたような知識を持った人々の共同体が、専門分化された知識群の最終的な集約点として「依るべき権威」の座を形成するという信頼があったのかもしれません。もちろん今でもそういう信頼は存在するのでしょうが、漠然としているが故に判断の「下駄を預ける」ことになってしまうこの種の信頼構造は、昔に比べると成立し難くなっているとは言えそうです。


●景観の自然発生性
 今週読んでいたエドワード・レルフの『場所の現象学』(高野岳彦・阿部隆・石山美也子訳、ちくま学芸文庫、1999年)は、景観や生活空間を計量的・幾何学的な客観的記述に収まらない、“意味”を内包した「生きられた世界」の経験として捉えつつ、その経験を文学的・情緒的にではなく理論的に定式化することを目指したものです。
 1973年に書かれた学位論文を原型とする本書は、今ではさして珍しくもない景観論における近代批判の一種とも取れますが、単純に近代の産物としての都市風景や景観を斥けて“自然に還る”ことを目指すような立場は取っていません。むしろ、既に存在する無味乾燥な生活空間をただ一つの「故郷」として生きるような人間もいるということを正面から見据えています。
……最も均質で「つつしみ」の気持ちを欠いて計画された現代の都市開発の空間ですら名称がつけられ、明瞭な中心と周辺地区とに組織立てられている。そして、まったくの郊外に住む人々ですら、そこに根をおろし、住んでいる場所へのかかわりを育んでいる(Taylor, 1973)。そのような経験は、ハイデガーの描くシュヴァルツヴァルトの農民が自らの住まいについて経験するものとは明らかに同じではないし(Vycinas, 1961, p.16, p.261)、その家屋のつくりに現れたものと同じ濃密さと奥深さを持つこともできない。なぜなら、郊外の家々はカタログの中のデザインを用いた請負い業者たちの仕事によって建てられているのだから。しかし同時に、私たちはそれをより劣った経験であると安易に判断することはできない。なぜならそれは、人間の意志や希望や畏れを含むからである。幸福や絶望といった経験に関しては、私たちはそれを測る尺度を持ち合わせていないのだ(Haag, 1962, p.199)。

(『場所の現象学』p.63)

 ちょうどこの本を読んでいる最中に下記の記事を読んだので、この記事にある「景観の自然発生性」などといった論点は、常にも増してすんなりと私の意識に入ってきました。
 近年、制度としての景観行政が注目され、建築を制限するものとして捉えられることが多い「景観」であるが、本来、景観は建築や土木、都市計画といった、建設し提供する側の思惑を超えて発見され、共有されていくものである。
(略)
「新景観」の担い手には、共通して以下のような特徴が見られる。
 まず、鑑賞の形式や作法が確立していない。これはつまり、景観の発見が現在進行形であるということである。それから、その対象として、意図された造形、意匠に関心が低いこと。むしろ、生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形や、エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形に「萌え」る、一種の「自然景観」として都市を眺める傾向がある。

(強調はぼくがしました)
なるほど,景観とは自然発生(発見)的なものであり,「美しい国」とか抜かして規制によって景観をかたちづくるのは筋違いで,クソ阿呆のやることだ,ということだろうきっと.これは半分冗談だけど,景観論として思うところはとても多い.「嘘をつかない,正直なデザイン」とは,自然の風景のようにそこにあるべきものがあるデザインであり,「ガードレールの花の絵のペイント」「料金所の切り妻屋根」などと言ったものは,(そのコテコテな感じの味はあるけれど)愚の骨頂である,ということだろうか.
(略)
……工場とかダムとかジャンクションが美しいのは,石川さんが言うように,それが「生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形や、エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形」であるからで,この「正直なデザイン」を超える,“美しさが意図された”デザインを達成するには,卓越したエンジニアリングや蓄積された膨大な生活の営みを超えるだけの提供側の本気度が必要なんだと思った.「本気で美しい景観をつくれますか」というタイトルに込められた意図はこんな感じだろうか.

俺は魚だ, と言ってみるテスト 2009/1/29『嘘をつかない,正直なデザイン,「本気で美しい景観をつくれますか」』


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